誰もいない楽家

2001年12月21日 | 暮らし

ったって、
マスターとNちゃんはいます。
奥には、宴会の客もいた。
しかし、カウンターには私ひとり。

今日は、6時過ぎに楽家に行った。
金曜日は女房が家にいないので、
(といっても、今週は全部いなかった)
自然と足が楽家に向かってしまう。

こういうときもあります。
8時過ぎTさんが来てほっとした。
Nさんも来た。
私は、映画「十五才 学校IV」を観るために、
9時に家に帰った。

……………………………………………………………

さっき、「ほぼ日刊イトイ新聞」を見たら、
ガンジーさんが永眠したと書いてあった。
ガンジーさんの毎日の文章は、
九想の励みだった。
おれは、とてもかなしい。

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フラメンコ舞踊団誕生

2001年12月20日 | 家族

本日、女房がフラメンコを踊ってきた。
いや、踊るだけだったらしょっちゅうですが、
練習ではなく、人前でです。
9月にASAHIネット銀座スタジオで
踊ったメンバーの中から一人減って、
新たな踊り手が二人加わったという。
カンテ(歌い手)は、
現在女房が習っている先生が参加した。
ギターを弾いた男性は、
11月に勤めを辞めスペインに行っていて、
昨日帰ってきたらしい。
ロータリークラブの集まりで踊った。
場所は、入間市のレストラン。

さっき帰ってくるなり女房は、
「ああ…、だめだ、ダメダ。練習しなくっちゃ」
と反省している。
ソロを踊った。
途中で振りが分からなくなったが、見る人もいない。
ソロはむずかしいとため息をつく。
見ていた先生は、
「止まらないで」と祈っていたらしい。
動きが止まらなければ、
なにやっていても分からない。

このメンバーで、
フラメンコ舞踊団をつくるという。
先生が今日、次の“仕事”をさっそくとったらしい。
“仕事”といってもプロではないので、
お金は入らない。
(今日は、八千円もらったとか。
 でも、練習するスタジオを借りる料金とか
 衣装代で、マイナスになってるだろう)
彼女たちは踊ることがうれしいのです。
「これから宣伝して、“仕事”をとるんだ。
 いろんなところで踊たい」
と女房は張り切ってる。

ますます彼女は家族を置き去りにして、
フラメンコに夢中になっていく。

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星野阪神

2001年12月19日 | スポーツ

星野氏が、来期の阪神監督に就任した。
阪神ファンの私としては、複雑な想いです。
どうしても星野氏は中日のイメージが強すぎる。
まして、今年まで中日の監督をしていたのだ。
できれば、阪神で活躍した人になってもらいたかった。
こういう考えは、古いのでしょうね。
選手だって球団を変えるのだから、
監督だって球団を変えてもおかしいことはない。
そう考えても、なんかわりきれないのです。
野村氏が監督になったときだってそうでした。

でも、どちらかというと、私は星野氏が好きです。
来年は今の気持ちなど忘れて、
星野阪神を応援してるんだろうな。

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ロト6で当選

2001年12月18日 | Weblog

当選したといっても、5等です。
本数字が3個だけ一致した。
でも、うれしかった。
今年になってから買い続けて初めてです。
買い始めた頃は、
そのつど番号を変えていたが、
夏から同じ番号にしている。
番号を変えて、
前のが当たったりしたら悔しいからです。
これまで2個一致というのはあったが、
それ以上がなかなか一致しない。
これで少し運が向いてきたかな、
なんて思っている。

ロト6というものを知らない方がいたら、
上記のことが何のことか分からないと気がついた。
知ってるひとには必要ないでしょうけど、
説明しようと思います。
正式には「数字選択式全国自治宝くじ」といいます。
自分で好きな数字を6個選んで、ロト6を買います。
毎週木曜日に抽選があり、
結果は、インターネットと翌日の新聞に載ります。
私は、1組の6個の数字を5週間分買っている。
1口200円なので、いつも1,000円分買っている。
これで毎週金曜日が楽しみなのです。
しかし、毎週落胆してばかりです。
先週も新聞で最初から3個の数字を見て、
今回もダメだったとがっかりした。
私はこのところ、
毎週抽選された数字をパソコンに入れている。
たいした意味はないけど、
いつか役に立つかなと思ったからです。
(立つわけないですね)
そのとき、念のために6個の数字を確認したら、
3個、一致していたのでした。
よろこびましたね。
思わず女房に大声でいった。
「5等が当たったよ」
「いくらなの?」
「1,000円」

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営業マンだった私4

2001年12月17日 | 会社・仕事関係

銀座に行って、資生堂のビルに着いて私は驚いた。
それまでアポがとれて訪問した会社は、
みんな小さかった。
商店街の中にあったり、郊外の工業団地だった。
社長が採用担当をしている会社もあった。
受付のきれいな女性に、来社理由をいい、
4、5階だったかの人事課に行った。
私に会ってくれた担当者は足が不自由で、
歩くときに体を大きく上下させていた。
さっそく会社の企画の話をすると、
そのとき資生堂では、
九州地域で働く
大量の美容部員を募集するところだといった。
タイミングがよかった。
その日に掲載が決まり、
私は、天にでも昇る気持ちで会社に帰った。

会社に戻り、社長、部長に報告すると、
「おまえな、広告業界にいる人間はあんなところに
 電話なんてしないよ。だめなのわかってるから。
 おまえはたいしたもんだよ」
と部長はニコニコしていってくれた。
社長もこのときは笑顔で、
他の人もよろこんでくれた。
私は、何度か資生堂に行き、
担当者と原稿の打ち合わせをした。
この人がいいひとだった。
「資生堂が広告出すときは、
 全部電通でやるんですってね」
私は訊いてみた。
「そうですが。私には関係ない。
 あなたに出したかったんです」
私は変わった広告にしたかった。
普通、求人広告は横書きだったが、
私は縦書きの広告をつくった。
それでいいということになり、
私の資生堂の求人広告は、読売九州版に載った。

しかし、私の営業成績はこれくらいで、
あとは鳴かず飛ばずだった。
いいかげん求人広告の営業がいやになった。
はじめは釣りをしているようで、
魚の引きがあるときは楽しかった。
しかし、毎日まいにち浮きが動かないと、
面白くなかった。
地道に作業服を着て、
ものでも造ってるほうがいいと考えた。
それから私は、アポがとれたと嘘をいい、
会社を出ては職安に行っていた。
求人広告をとる営業マンが、
自分の就職を探していた。
子どもが生まれるまでに、
かたい仕事をしたいと願った。
そしてなんとか、
板橋にある時計の部品を製造する会社に
就職を決めた。
竜功社には8ヶ月勤務した。
このときだけは毎日スーツを着ていた。
その前後、
私はスーツとは縁のない仕事をしている。
何年後かに、
御徒町に行ったついでに竜功社を訪ねたら、
その会社はなかった。
                (了)

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営業マンだった私3

2001年12月16日 | 会社・仕事関係

私といっしょに入社したKという男はすごかった。
私みたいにうじうじ考えないで、
どんどん電話しまくった。
そのせいか、2、3日に1社ぐらいアポイントをとった。
とると資料を持ってその会社に行く。
私ともう1人の女性は、
会社で1日中電話をかけていなくてはならない。

その女性は、後日知ったのだが、
夜はホステスをしていた。
部長のよく行く店に勤めていて、
そういうことから入社したようだった。
当然(なにが当然なんだ)、
社長と経理の女性は出来ていた。

Kはアポをとった会社に営業に行くけれど、
なかなか広告掲載にはならなかった。
なったとしても、九州版の企画のほうではなく、
都心版の行数広告のほうだった。
ほとんど九州から求人するという会社はなかった。
それでもKはそれなりに売り上げを上げるので、
社長はよろこんだ。
私は、毎月給料はもらうが、稼いではいなかった。
だんだん社長の私に対する風当たりがきつくなった。
「おまえは、初めッから、こんな企画だめだよ、
 という感じで電話してる。
 もっと熱意を持って電話しろ」
と社長は怒るが、
私のこころがそう思ってるからしょうがない。

そのうち、私にもアポイントがとれるようになった。
何社か行数広告も出した。
東北統合版というのに、居酒屋の
2段8分の1の広告を載せたこともあった。
居酒屋の名前のロゴを自分でつくり、
コピーも書いた。楽しかった。

11月だったか、女房が妊娠したことが分かった。
10月に公団の高島平団地に引っ越していた。
1DKの風呂トイレ付きになったので、
子どもが欲しいねと女房がいいはじめた。
こりゃ頑張らなくてはならないと思った。
しかし、いっこうに仕事はとれなかった。
子どもが生まれるというのに、
私は、情けない気持ちで生きていた。

あるとき私は、すごい会社に電話していた。
そのときは何も考えてなかった。
ただ電話しなくてはという思いだけだった。
すると、人事担当者にすんなりつないでくれ、
その日にそこを訪問することになった。
社長に、
「アポがとれたので行ってきます」というと、
「どこの会社だ」という。
「銀座です」
「なんて会社だ」
「資生堂です」
「なんだって? 資生堂といったのかおまえ」
「はい」
「ばか、あそこは電通に決まってるんだよ」
「でも、来てくれ、といってました」
「………」

              (つづく)

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営業マンだった私2

2001年12月15日 | 会社・仕事関係

わけは知らなかったが、
社長の小指が第一関節からなかった。
何かの事故で、とは聞いていたが、
それ以上のことは聞いていない。

竜功社は、
御徒町の山手線沿いにある雑居ビルの3階にあった。
社長と部長、それに経理の女性がひとつの事務所にいて、
営業の3人は、通路をへだてたもうひとつの事務所だった。
それまでの竜功社は、3人でやっていた。
新しい企画を実行するために、
私たち営業3人を入社させたのだった。
社長と部長は、長いこと求人広告業界で生きていて、
そこそこの大きな会社を得意先に持っていた。
そこで求人広告を出すときは、
必ず彼らに仕事が来るようになっていた。
それだけでは儲からないので、
毎週日曜日の読売九州版の全2段を買い取り、
関東の会社の求人広告を出す企画を考え、
私たちをいれたのだった。

あの頃は、景気が上向いていたので、
求人広告を出しても人が集まらなかった。
そこで、九州のほうで都会に憧れる若者を、
東京で働きませんか、と呼ぶ広告は、
なかなかいい企画だと、
面接で社長に聞いたとき私は思った。
私にもその営業なら出来るかなと考えたのでした。
それが甘かった。
地方から人を求人出来るという会社は、
そこそこ大きな会社で、
寮とか社宅を持ってるところでないと出来ない。
そういう会社は、求人広告を出す代理店は決まっている。
ちっちゃな代理店が電話で営業しても、
話も聞いてくれない。
私たち3人は、毎日まいにち沢山の会社に電話をしたが、
まったく仕事に結びつかなかった。
私は、電話をかけるのがイヤになった。
かけないでいると隣の事務所の社長が来て怒鳴った。
電話のボタンの明かりがついてないと、
かけてないと分かる。
ものすごく怖かった。
なにしろ、小指がない人です。
九州版の全2段はなかなか埋まらなかった。
社長と部長のお客で3分の2は決まるが、
あとがない。
結局、社長、部長の得意先の会社の広告を、
サービスで出すことになる。

ところが3ヶ月ほどして私にも、
ラッキーなことがあった。

                   (つづく)

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営業マンだった私

2001年12月14日 | 会社・仕事関係

私が27歳のとき、営業マンをやった。
それが最初で最後でしたが…。
26歳の2月7日に、
豊島区役所に籍を入れただけの結婚をした私は、
5月に失業した。
3月に東大生協から東洋大生協に移籍になったのですが、
「店長になったのなら、**党に入らないといけない」
といわれて、私は生協を辞めた。
それから私は、9月まで無職でいた。
8月に1週間、アルバイトとして、
浅草の松屋デパートの地下で、
鮭を売ったことがありましたが。

いつまでも遊んでいるわけにいかないと就職したのが、
新聞の求人広告の代理店をしている
竜功社という御徒町にあった会社だった。
そこは、求人広告の代理店といっても、
大手代理店の下請けのそのまた下の孫請けだった。
社長と部長がいて、その下に、
経理の女性一人と、
女性1人と男2人の営業がいるだけの会社だった。
営業のメインは、読売新聞九州版に毎週、
全2段の求人広告を出すことだった。
なかなか求人募集をしても集まらない、
関東の会社を対象にして、
九州地方から人を集めようという企画だった。

入社したその日から、
私は毎日電話営業をさせられた。
各社の新聞の求人欄、アルバイトニュース、就職情報、
などに求人広告を出している会社に、
片っ端から電話をした。
「先日御社は、**に求人広告を出しましたが、
 反響はどうでしたか?
 そうですか。だめでしたか。
 うちでは九州から、
 良質な人材を集める企画をしてます。
 ぜひ一度話だけでも聞いて下さい」
こんなことを、相手の人事担当者に話していた。
でも、担当者に電話をつないでもらえるだけで幸せだった。
たいがいは、電話に出た女の子に冷たく切られるのが
普通だった。

9時から5時まで毎日電話のかけどうしだった。
いつも断られていると、いやになる。
なにしろ話も聞いてくれない。

                 (明日につづく)

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息子の雇い主

2001年12月13日 | 友人

昨日の楽家での忘年会で、
Aさんが、息子のバイト先のコンビニの
オーナーであることを知った。
以前からよく話はしていたが、
まさか息子の雇い主とは知らなかった。
歳は私と同じ49歳。
聞くまで私より4、5歳年上と思っていた。
「Aさんの店でうちのせがれが働いているんですが、
 どうですかね」
「Kくんですよね。
 まじめにやっていて助かってますよ」
どうもAさんは、
私のことをKの父親だと知っていたみたいだった。
息子の仕事ぶりを、
よその人から聞くというのは、
なんかへんな気持ちだった。

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ある会社の閉鎖

2001年12月12日 | 会社・仕事関係

今日は、楽家で1回目の忘年会だった。
客のみっちゃん企画の忘年会だった。
年末には楽家主催の2回めの忘年会がある。
10人が集まった。
楽しかった。
こういう時間を過ごせることがうれしかった。

忘年会に行く前に、
パソコンを立ち上げ見ると、
メールが来ていた。
私が以前いた会社は3年前に2つに別れた。
半導体製造の前工程のときに使われる
アッシャーという装置を製造する会社と、
後工程に使う
ハンドラーという装置をつくる会社とに別れた。
私は、アッシャーを製造するほうに所属していた。
その会社は山梨に移り、
そのうち静岡のほうに行くと聞いていた。
メールをくれたのは、
ハンドラーを製造している熊本の会社にいる人からだった。
セミコンショーのブースで
アッシャーを造るほうの会社の人に会って聞いたことは、
1月で会社が閉鎖になるということだったらしい。
私がもし残っていたとしても、
来年の1月で失業者になっていたということだ。
半導体業界の落ち込みはここまでひどかったのか。

複雑な想いで私は楽家に行った。
酒を飲んでいても、
私は山梨の会社のことを考えていた。
東京の小平から移るときかなりの人が辞めた。
私は山梨にいたが、戻るところがなくなったので辞めた。
あの会社の遺産を引き継いだ会社がなくなる。
私のある時期、
一所懸命働いて沢山のアッシャーという装置の部品を集め、
それらがいろんな会社で動いている。
そんなことが“ゼロ”になってしまう。
あの頃、ほんとうに忙しかったとき、
深夜まで働いていたときもあった。
酒を飲んでいたとき、ある部品が欲しいといわれ、
12時過ぎに会社に戻ったこともあった。
今思えば楽しかった。
しかし、あのときも苦しかったはずだ。
でも、今よりは仕事のやりがいがあった。
3年前に小平にあった会社の土地が更地になったが、
こんどは世間からも消滅してしまう。
さびしい。

楽家で私はケーナを吹いた。
かなしかったな。

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