武寧軍李愬や宣武軍韓弘などの攻撃に加え、魏博節度使田弘正は全軍を率いて李師道を伐った。
ついに二月淄青将劉悟は李師道を殺して降り、淄青十二州は朝廷の支配下になり、淄青・天平・沂海の三鎭に分割された。
半独立の宣武軍節度使韓弘も懼れて汴宋亳穎四州を献じて入朝した。
これにより友好的な魏博・幽州節度使を除き唐の威令が届くことになり、藩鎭から支州を分離して弱体化させる政策も実施されることになった。
政界では佞臣皇甫鎛が寵遇をうけ、功臣裴度は河東節度使として出され、崔羣もまた失脚した。
憲宗はいよいよ道教にこり、仙薬の影響により精神状態がおかしくなっていった。
北辺では吐蕃がしばしば来寇したが大きな損害はなく、かえって憲宗は吐蕃を討伐し隴右回復を考えるようになっていった。
ついに二月淄青将劉悟は李師道を殺して降り、淄青十二州は朝廷の支配下になり、淄青・天平・沂海の三鎭に分割された。
半独立の宣武軍節度使韓弘も懼れて汴宋亳穎四州を献じて入朝した。
これにより友好的な魏博・幽州節度使を除き唐の威令が届くことになり、藩鎭から支州を分離して弱体化させる政策も実施されることになった。
政界では佞臣皇甫鎛が寵遇をうけ、功臣裴度は河東節度使として出され、崔羣もまた失脚した。
憲宗はいよいよ道教にこり、仙薬の影響により精神状態がおかしくなっていった。
北辺では吐蕃がしばしば来寇したが大きな損害はなく、かえって憲宗は吐蕃を討伐し隴右回復を考えるようになっていった。