唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

長慶元年(821年.弘仁十一年)

2006-11-03 15:11:42 | Weblog
二月最後に残った幽州節度使劉總が八州をあげて帰服した。
總は父や兄を殺害した自責の念から節度使を棄てて出家した。
これにより唐は全国統一をなしとげたわけではあるが、穆宗は父に似ず無能な遊び人であり、宰相段文昌や蕭俛・崔植なども経略のない官僚であった。
そのため河北の統治にミスが多く、
七月幽州や成徳で軍乱がおこり幽州節度使張弘靖は捕らえられ、朱滔の末克融が自立し、成徳節度使田弘正は殺され、將王庭湊が自立した。
朝廷は残った魏博節度使に弘正の子の布を配し[李愬が病により辭したため]成徳を伐たそうとしたが、魏博にもまた動揺が起こっていた。
幽州・成徳討伐が行われたが、中央政府に強固な方針がなく、前線軍はいつものなれ合い戦闘を繰り返し戦果はあがらなかった。
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元和十五年(820年.弘仁十年)

2006-11-03 09:08:28 | Weblog
憲宗は仙薬の影響で狂乱状態となることも多く、危害を受ける宦官達は陳弘志を中心にして謀議し、正月に憲宗を殺した。
皇太子は即位して穆宗となったが、なぜか弑逆の犯人達は追究されなかった。
このため廃位を懼れた無能な皇太子やその母郭妃も関係しているという説もある。憎まれていた宰相皇甫鎛はたちまちに左遷されていった。
憲宗没後もまだまた朝廷の権威は高く、吐蕃の侵攻はあるが大きな問題とはならず、南部では黄洞蠻が征討されていった。
十月には成徳王承宗が亡くなり、弟承元は鎭冀深趙四州を朝廷の麾下に戻した。
朝廷は魏博節度使田弘正を成徳節度使に移し、魏博には李愬を送り込んで直轄化した。
これにより幽州節度使を除き唐が直轄支配することとなった。
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