輔國は外面は恭謹で寡言であったが、内面は狡險で寵姫の張良娣と連携し肅宗を操り、殿中監・行軍司馬として軍權をにぎった。
至德二年[757]十二月両京回復後、恩賞として光禄大夫から開府儀同三司.郕國公.實500戸を与えられ、殿中監判行軍事は維持していた。
乾元元年[758]二月
大僕卿を兼ね厩權をにぎった。
肅宗は輔國や張皇后に頤使されることに不満であったが、意志薄弱であったのでどうにもできなかった。
乾元二年[759]三月
京師の治安が悪く、輔國は羽林軍に治安を任せようとしたが、宰相李揆に金吾軍の役割を侵害するとして止められた。このように宰相とは対立することが多かった。
輔國の権限は強くなり、禁兵を掌握し、上奏はすべて事前に輔國に承認されることが必要となり、決裁も輔國が専断することが多くなった。肅宗は不満であったが輔國に頼り切りであり辞めさせることはできなかった。
五月
麾下の馬坊の吏員を処刑されたことで、法官の中丞崔伯陽、刑部侍郎李曄、大理卿權獻と争い、反って三人を処罰し、反対する宰相李峴をも左遷した。
乾元三年[760]四月
山東節度使で軍乱が起き節度使史翽が殺された。鎮圧の為隴州刺史韋倫を節度使として派遣することになったが、倫が輔國の所に挨拶にこなかったため解任し、來瑱を代わりに任じた。
上元元年[760]五月
輔國は京畿鑄錢使となり利権を拡大し、六月長春宮使を兼ねた。
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