檢校司空汴州刺史宣武軍節度使李愿は、德宗時の副元帥太尉李愿の子です。父や弟愬のように將才はありませんが大功臣の長子であるため優遇され節度使を歴任してきました。
宣武軍は劉玄佐から韓弘まで長い半独立の期間があり、韓弘が唐朝に帰属後、才識のある元宰相の張弘靖が將士を優遇しながら慰撫してきていました。
長慶2年6/7月
李愿は將士の労苦や実情をしらない豪家の出身で、厳格なだけで威厳を保つタイプであり、將士を冷遇し、処罰を厳しくしていました。また妻弟竇瑗に政務を任せきっていました。
宣武軍宿直將李臣則は竇瑗や愿妻を斬り、節度使李愿を逐いました。衙門都將李介*が自立しました。
李介*の字は[ウ冠+介]で漢字表にありません。そのため翽や□や嶺で表示されます。
李愿は隨州刺史に貶されましたが、やがて宦官に贈賄し河中節度使に復帰します。
さすがに汴州は要地であり、せっかく回収した唐朝は手放す意志はありません。通常は非戦派の宰相李逢吉も征討を唱えます。しかし姑息な宰相杜元穎・度支張平叔は宥和を説きました。
宋、毫、穎三州の刺史は上奏して別帥を求めます。
そこで唐朝はいつもの姑息な方策で、鄭滑節度使韓充に汴州刺史宣武軍節蓄使汴宋亳穎觀察等使を兼任させ、宣武軍節度押衙李介*は右金吾衛將軍にしますが、介*は受けません。
韓充は弘弟で、寛厚で宣武軍にいたときは將士の信望がありました。
李介*は宋州[刺史高承簡]が従わないので、攻めて寧陵、襄邑二縣、宋州南城を陥し、承簡と戦いました。
兗鄆節度使曹華は宋州を支援し介*軍を破りました。
忠武軍節度使李光顏が李介*軍を尉氏で破りました。
長慶2年8月
武寧節度使王智興は高承簡を支援し李介*軍は敗走しました。
自身が乱を起こして自立した智興ですが、今回は唐朝側に転身しています。
壬申,韓充は李介軍を郭橋で破り、萬勝に進みました。
都知兵馬使李質は李介*自立時の腹心でしたが、情勢の悪化と介*の病気をみて監軍姚文壽に通じ、介*や李臣則等を殺して降りました。そして介*四子を捕らえて京師に送りました。
韓充は汴州に入り、宣武節度使専任になりました。
恩賞として泰寧曹華を義成節度使、宋州刺史高承簡を兗海沂密節度使、忠武李光顏を兼侍中とし、李質を右金吾將軍にしました。
韓充は軍中の惡者千餘人を家族とともに域外に放逐しました。
長慶2年9月
李介*男道源、道樞、道瀹等三人が誅され、妻馬氏と小男道本、女汴娘は宮奴にされました。
宣武軍は劉玄佐から韓弘まで長い半独立の期間があり、韓弘が唐朝に帰属後、才識のある元宰相の張弘靖が將士を優遇しながら慰撫してきていました。
長慶2年6/7月
李愿は將士の労苦や実情をしらない豪家の出身で、厳格なだけで威厳を保つタイプであり、將士を冷遇し、処罰を厳しくしていました。また妻弟竇瑗に政務を任せきっていました。
宣武軍宿直將李臣則は竇瑗や愿妻を斬り、節度使李愿を逐いました。衙門都將李介*が自立しました。
李介*の字は[ウ冠+介]で漢字表にありません。そのため翽や□や嶺で表示されます。
李愿は隨州刺史に貶されましたが、やがて宦官に贈賄し河中節度使に復帰します。
さすがに汴州は要地であり、せっかく回収した唐朝は手放す意志はありません。通常は非戦派の宰相李逢吉も征討を唱えます。しかし姑息な宰相杜元穎・度支張平叔は宥和を説きました。
宋、毫、穎三州の刺史は上奏して別帥を求めます。
そこで唐朝はいつもの姑息な方策で、鄭滑節度使韓充に汴州刺史宣武軍節蓄使汴宋亳穎觀察等使を兼任させ、宣武軍節度押衙李介*は右金吾衛將軍にしますが、介*は受けません。
韓充は弘弟で、寛厚で宣武軍にいたときは將士の信望がありました。
李介*は宋州[刺史高承簡]が従わないので、攻めて寧陵、襄邑二縣、宋州南城を陥し、承簡と戦いました。
兗鄆節度使曹華は宋州を支援し介*軍を破りました。
忠武軍節度使李光顏が李介*軍を尉氏で破りました。
長慶2年8月
武寧節度使王智興は高承簡を支援し李介*軍は敗走しました。
自身が乱を起こして自立した智興ですが、今回は唐朝側に転身しています。
壬申,韓充は李介軍を郭橋で破り、萬勝に進みました。
都知兵馬使李質は李介*自立時の腹心でしたが、情勢の悪化と介*の病気をみて監軍姚文壽に通じ、介*や李臣則等を殺して降りました。そして介*四子を捕らえて京師に送りました。
韓充は汴州に入り、宣武節度使専任になりました。
恩賞として泰寧曹華を義成節度使、宋州刺史高承簡を兗海沂密節度使、忠武李光顏を兼侍中とし、李質を右金吾將軍にしました。
韓充は軍中の惡者千餘人を家族とともに域外に放逐しました。
長慶2年9月
李介*男道源、道樞、道瀹等三人が誅され、妻馬氏と小男道本、女汴娘は宮奴にされました。
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