開成三年 西暦837年
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正月甲子,宰相李石入朝,有盜射之,微傷。
宰相鄭覃・李石は宦官仇士良等の専権を認めず、政策を巡って対立した。それでも覃は学者であるため穏健だが、石は財政を掌る関係もあり士良等と衝突することが多く、怒った士良は配下に襲撃させたわけである。武元衡暗殺以後は護衛兵がついていたが、甘露の変以降はなくなっていた。文宗は驚愕したが、士良の仕業とわかっていてもどうしようもなかった。
正月戊申,楊嗣復,李玨が宰相となった。李石は中書侍郎.荊南節度使に出た。
いずれも牛党である。石を守れない文宗は荊南節度に避難させた、現役の宰相格である中書侍郎を付帯させるのがせいぜいであった。
十月乙酉,義武軍節度使張璠卒,其子元益自稱留後。
璠は10年以上も在鎮し牙軍を掌握していた。牙軍は継承を求めて、交代の李仲遷を受け入れなかった。
本来は討伐しなければいけない状況だが、姑息な牛党の宰相は財政的な手段[義武軍は財政的に自立できず、中央からの供給に頼っていた]にたより、元益と仲遷の両方をはずし、乱を起こした牙軍は処罰しないという策で収めた。
十月庚子,皇太子薨。
文宗の子である皇太子の行跡は悪く、学業も劣っていた[宦官達がそのように仕向けた傾向があるが]。そのため文宗は廃位しようとしたが、周囲に止められ、太子の側近を処罰するに留めていた。しかし太子は憤死/自殺したようである。
開成四年 西暦838年
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三月丙戌,裴度薨。
淮西征討の先頭にたったという以外はたいした功績もなく、牛李の党争も収められない度であったが、なぜか元老扱いになっていた。官僚の象徴的なボスだが、その死は政局に与える影響はなかった。
十月丙寅,敬宗の少子陳王成美為皇太子。
文宗には太子とする子がいなかったので、まだ幼い甥の成美を太子とした。
開成五年 西暦839年
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正月辛巳,文宗崩御。弟穎王瀍[武宗]即位。
文宗を憎悪していた武官系宦官中尉仇士良、魚弘志は、文宗の定めた皇太子の即位を認めず、弟穎王瀍を擁立した。士良達は昭義劉従諫等の存在もあり、弑逆はためらっていたであろうが文宗排除の意志は堅かった。太子成美や穆宗の子安王は殺された。文官系の宦官知樞密劉弘逸、薛季陵や宰相達は太子擁立をしようとしたが及ばなかった。
◎.史書では甘露の変以降は、唐朝は宦官が全権力をにぎつたような記載はあるが、それは間違いである。少なくとも懿宗皇帝[宣宗皇帝までは確実に]までは皇帝はある程度の実権をもっていた。魯鈍の僖宗皇帝以降は宦官の傀儡であるが。そして衰亡の責任を宦官に押しつけるのも問題である。科挙を世襲化し腐敗した文官官僚族もまた唐朝を食い潰したわけである。その両者を潰滅させたのが五代後梁の朱全忠であろう。
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正月甲子,宰相李石入朝,有盜射之,微傷。
宰相鄭覃・李石は宦官仇士良等の専権を認めず、政策を巡って対立した。それでも覃は学者であるため穏健だが、石は財政を掌る関係もあり士良等と衝突することが多く、怒った士良は配下に襲撃させたわけである。武元衡暗殺以後は護衛兵がついていたが、甘露の変以降はなくなっていた。文宗は驚愕したが、士良の仕業とわかっていてもどうしようもなかった。
正月戊申,楊嗣復,李玨が宰相となった。李石は中書侍郎.荊南節度使に出た。
いずれも牛党である。石を守れない文宗は荊南節度に避難させた、現役の宰相格である中書侍郎を付帯させるのがせいぜいであった。
十月乙酉,義武軍節度使張璠卒,其子元益自稱留後。
璠は10年以上も在鎮し牙軍を掌握していた。牙軍は継承を求めて、交代の李仲遷を受け入れなかった。
本来は討伐しなければいけない状況だが、姑息な牛党の宰相は財政的な手段[義武軍は財政的に自立できず、中央からの供給に頼っていた]にたより、元益と仲遷の両方をはずし、乱を起こした牙軍は処罰しないという策で収めた。
十月庚子,皇太子薨。
文宗の子である皇太子の行跡は悪く、学業も劣っていた[宦官達がそのように仕向けた傾向があるが]。そのため文宗は廃位しようとしたが、周囲に止められ、太子の側近を処罰するに留めていた。しかし太子は憤死/自殺したようである。
開成四年 西暦838年
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三月丙戌,裴度薨。
淮西征討の先頭にたったという以外はたいした功績もなく、牛李の党争も収められない度であったが、なぜか元老扱いになっていた。官僚の象徴的なボスだが、その死は政局に与える影響はなかった。
十月丙寅,敬宗の少子陳王成美為皇太子。
文宗には太子とする子がいなかったので、まだ幼い甥の成美を太子とした。
開成五年 西暦839年
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正月辛巳,文宗崩御。弟穎王瀍[武宗]即位。
文宗を憎悪していた武官系宦官中尉仇士良、魚弘志は、文宗の定めた皇太子の即位を認めず、弟穎王瀍を擁立した。士良達は昭義劉従諫等の存在もあり、弑逆はためらっていたであろうが文宗排除の意志は堅かった。太子成美や穆宗の子安王は殺された。文官系の宦官知樞密劉弘逸、薛季陵や宰相達は太子擁立をしようとしたが及ばなかった。
◎.史書では甘露の変以降は、唐朝は宦官が全権力をにぎつたような記載はあるが、それは間違いである。少なくとも懿宗皇帝[宣宗皇帝までは確実に]までは皇帝はある程度の実権をもっていた。魯鈍の僖宗皇帝以降は宦官の傀儡であるが。そして衰亡の責任を宦官に押しつけるのも問題である。科挙を世襲化し腐敗した文官官僚族もまた唐朝を食い潰したわけである。その両者を潰滅させたのが五代後梁の朱全忠であろう。
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