唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

成德 李惟岳の乱

2022-12-13 08:15:02 | Weblog
李寶臣が建てた成德軍節度使は、有力諸将[蕃族出身が多い]の連合体という傾向があり寶臣独裁の体制ではありません。寶臣は子の惟岳の継承を望み、異論のある諸将を殺害し、そのため張孝忠・王武俊・康日知など諸将は不安にかられていました。

建中2年正月
成德軍節度使司空兼太子太傅平章事隴西郡王李寶臣は卒しました。惟岳は継承を求め、自己の継承に寶臣に助力を得た魏博田悅も支援しましたが、德宗皇帝は認めるつもりはありません。

幽州盧龍軍節度使朱滔は惟岳を征討します。

魏博田悅は惟岳を支援し挙兵しました。永平李勉を都統として神策李晟、河東馬燧、昭義李抱真、河陽李芃が征討にあたります。

建中2年5月
田悅は派兵し邢州・臨洺を攻めました。

建中2年7月
田悅・惟岳軍は臨洺で唐軍に大敗しました。

魏州に敗走した悅に惟岳軍と淄青軍が来援しました。

建中2年8月
幽州朱滔が南下し莫州に到り、易州を守る張孝忠の帰朝を促しました。

建中2年9月
易州刺史張孝忠は降り、恆州刺史充成德軍節度觀察使に任ぜられました。もちろん名目です。

建中2年11月
李惟岳の官爵を削りました。今更とは思いますが。

建中3年正月
幽州朱滔、張孝忠は李惟岳軍を束鹿に破りました。束鹿を陥し深州を攻めます。

田悅は洹水で大敗し形勢は悪くなりました。

惟岳は弟惟簡を人質に出し降ろうとしますが、孤立する田悅に激怒され実行できません。

惟岳將康日知が趙州を以って降りました。

惟岳は疑いながらも王武俊・衛常寧に趙州を伐たせます。武俊の子士真を人質にしておきます。

武俊は既に叛意を持ち張孝忠に降ろうとしますが、常寧は恒州を襲い惟岳を討てと勧めます。

建中3年閏正月
武俊は恒州に突入し惟岳を殺しました。

惟岳の姉の夫である楊榮國は深州を以って朱滔に降りました。

建中3年2月
惟岳將定州刺史楊政義が定州を以って降りました。

成德七州は張孝忠に易定滄三州、康日知に深趙二州、王武俊に恒冀二州に分割され。そして朱滔に徳棣二州が与えられましたが、武俊は日知と同格なのが不満ですし、朱滔は深州を求めているのに、遠隔地の徳棣を与えられてやはり不満でした。そのためまもなく第二ラウンドが始まります。

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