二月辛巳,魏暮が西川節度へ。
正論を述べるので、主宰相の令狐綯に敬遠された。
五月,容管軍亂,逐經略使王球。
嶺南磎洞蠻がしばしば容管・邕管領域に侵攻してきた。弱体な容管軍が動揺し
て反乱を起こしたもの。洞蠻征討軍を率いた宋涯が進駐し一応は抑えた。
七月成德軍節度副大使王紹鼎が卒し、弟紹懿が継承した。
九年正月に継承した紹鼎は愚かで横暴であったため、牙軍は乱の気配があった。
丁度都合よく死んでくれたので、王氏は存続できた。暗殺したのかも知れない。
このように河北三鎮では総帥の力量が乏しい場合は相続ができない。ただ成德だ
けがまだ穏健であった。魏博は牙軍の意向に左右され、幽州は指揮能力のない
ものは排除される。
十月壬申,宰相鄭朗が疾辭した。
大中十二年
正月安南軍に王式が赴任した。
雲南蠻の侵攻で動揺していた牙軍を立て直し、築城した。
正月戊戌,劉瑑を崔慎由と交代に宰相に任じた。
即位して十三年、宣宗は皇帝としての権限を揮えるようになり、他に相談するこ
となく信任する劉瑑を相に任じた。
四月庚子,嶺南都將王令寰が乱し,節度使楊發を逐った。
硬骨な楊發が腐敗した嶺南軍政を粛清しようとしたため逐われた。
涇原節度使李承勳がこれを討った。南方の牙軍は弱くまともな征討軍が来れば
すぐ鎮圧される。
五月丙寅,宰相劉瑑が薨。
なったばかりの宰相が死ぬ、こういうことがこれからも何度も起きる。
五月庚辰,湖南都將石載順が乱し,逐觀察使韓琮。
恒例の腐敗した帥と、収奪により弱体化して綱紀が緩んだ牙軍による。
六月丙申,江西都將毛鶴、逐觀察使鄭憲。
上に同じである。十二月鎮定。
六月辛亥,南蠻寇邊。
ガタガタな唐朝の南方防衛の内情を知り、本気で雲南蠻が侵攻してきた。
七月,容州將來正が反した。
ここは防衛拠点であり、征討使宋涯が居るので乱軍は返り討ちになった。
八月,宣歙將康全泰逐觀察使鄭薰。
上に同じだが、宣歙は唐朝の重要な財源地帯であるため、
直ちに淮南節度使崔鉉が追討使となり、十月鎮定。
忠武や山東などといった強い軍がくれば、堕落した南方諸鎮の牙軍
はひとたまりもなく鎮定される。しかし統治官僚の腐敗した状態に
変わりはないので、ただ崩壊するだけであり、雲南蠻侵攻や黄巣の
乱にはなんの抑えもできなくなっていった。
正論を述べるので、主宰相の令狐綯に敬遠された。
五月,容管軍亂,逐經略使王球。
嶺南磎洞蠻がしばしば容管・邕管領域に侵攻してきた。弱体な容管軍が動揺し
て反乱を起こしたもの。洞蠻征討軍を率いた宋涯が進駐し一応は抑えた。
七月成德軍節度副大使王紹鼎が卒し、弟紹懿が継承した。
九年正月に継承した紹鼎は愚かで横暴であったため、牙軍は乱の気配があった。
丁度都合よく死んでくれたので、王氏は存続できた。暗殺したのかも知れない。
このように河北三鎮では総帥の力量が乏しい場合は相続ができない。ただ成德だ
けがまだ穏健であった。魏博は牙軍の意向に左右され、幽州は指揮能力のない
ものは排除される。
十月壬申,宰相鄭朗が疾辭した。
大中十二年
正月安南軍に王式が赴任した。
雲南蠻の侵攻で動揺していた牙軍を立て直し、築城した。
正月戊戌,劉瑑を崔慎由と交代に宰相に任じた。
即位して十三年、宣宗は皇帝としての権限を揮えるようになり、他に相談するこ
となく信任する劉瑑を相に任じた。
四月庚子,嶺南都將王令寰が乱し,節度使楊發を逐った。
硬骨な楊發が腐敗した嶺南軍政を粛清しようとしたため逐われた。
涇原節度使李承勳がこれを討った。南方の牙軍は弱くまともな征討軍が来れば
すぐ鎮圧される。
五月丙寅,宰相劉瑑が薨。
なったばかりの宰相が死ぬ、こういうことがこれからも何度も起きる。
五月庚辰,湖南都將石載順が乱し,逐觀察使韓琮。
恒例の腐敗した帥と、収奪により弱体化して綱紀が緩んだ牙軍による。
六月丙申,江西都將毛鶴、逐觀察使鄭憲。
上に同じである。十二月鎮定。
六月辛亥,南蠻寇邊。
ガタガタな唐朝の南方防衛の内情を知り、本気で雲南蠻が侵攻してきた。
七月,容州將來正が反した。
ここは防衛拠点であり、征討使宋涯が居るので乱軍は返り討ちになった。
八月,宣歙將康全泰逐觀察使鄭薰。
上に同じだが、宣歙は唐朝の重要な財源地帯であるため、
直ちに淮南節度使崔鉉が追討使となり、十月鎮定。
忠武や山東などといった強い軍がくれば、堕落した南方諸鎮の牙軍
はひとたまりもなく鎮定される。しかし統治官僚の腐敗した状態に
変わりはないので、ただ崩壊するだけであり、雲南蠻侵攻や黄巣の
乱にはなんの抑えもできなくなっていった。
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