徐泗濠節度は李氏淄青節度の大運河漕運への脅威を防ぐために設置された節度使で、名将張建封が貞元4~16にかけて在鎮し強力な軍を形成していました。
貞元16年張建封が病むと、朝廷は行軍司馬に蘇州刺史韋夏卿を赴任させ、5月建封が卒すると徐州判官鄭通誠を知留後とし浙西軍を導入しました。
牙軍は建封子の愔を擁立し通誠や大將段伯熊を殺し、監軍を捕らえました。
朝廷は吏部員外郎李鄘を送り宣慰しましたが、愔は自立しました。
そのため朝廷は淮南節度使杜佑を同平章事兼徐濠泗節度使とし伐たせました,
文官の佑は牙將孟准を派兵しましたが、徐泗濠軍に敗れました。
泗州刺史張伾も出兵しましたが橋伾に大敗しました。
貞元16年6月
朝廷は愔を徐州團練使とし徐州だけを与え、伾を泗州留後、濠州刺史杜兼を濠州留後として、佑を兼濠泗觀察使として淮南に併合しました。
貞元16年9月
虔王諒を徐州節度使とし、愔をその留後としました。
愔は継承に成功しましたが、泗濠二州を失い、徐州軍は財政的に苦しい状況が続きます。
貞元21年/永貞元年3月
徐州軍は賜號され武寧軍となり、愔は節度使となりました。
元和元年11月
愔は病となり上表して交代を求め、工部尚書に移りました[12月に卒しました]。
東都留守王紹が檢校右僕射武寧軍節度徐泗濠等州觀察等使として赴任しました。泗濠二州を土産にすることで財政的にうるおいますので、將士達は乱を起こさず交代を受け入れました。しかし徐州軍は以降も頻繁に軍乱を起こす難治な所です。
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