唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

相衛澶節度使

2012-06-30 09:04:21 | Weblog
・魏博節度使を分割しようとした計画上の方鎭であり実現していない。
・魏博節度使[領州は魏博貝相衛澶の六州]史憲誠は奚人であり、主君の田布を裏切り自殺に
追い込んで節度使を奪ったが、一応唐朝に協力して横海李同捷や成徳王廷湊と対峙していた。
・子の孝章(唐)は唐朝親近派であり、父に朝廷への歸順を薦めていた。
・魏博は横暴で強力な牙軍が形成されており、憲誠の地位も不安定なものだった。
・太和3年[829年]派遣軍が反乱し、唐朝軍李聴の支援を得てかろうじて鎮圧するという状況
が起こり、憲誠はすっかり嫌気がさして魏博を義成節度使李聴に引き渡し、
自分は河中節度使を得て安泰な地位に就こうとした。
・唐朝は強力な牙軍がそのままでは統治困難なため、相衛澶の三州を分離して、
孝章に与えて慰撫することとした。
・6月聴がぐすぐずと赴任をおくらせている間、憲誠は魏博の財産を総ざらえにして河中へ移鎭しようとした。
・分割に不満な牙軍は蜂起し憲誠を殺し、何進韜を押し立てて、7月赴任してきた聴軍を破った。
・唐朝は進韜の自立を認め、相衛澶三州の管轄を魏博に戻した。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

瀛莫都団練観察使 瀛莫節度使?

2012-06-29 19:21:03 | Weblog
・憲宗皇帝が宦官に殺害された後も淄青・成徳・魏博・淮西・宣武を回収した唐朝の権威は高く、
父兄の亡霊に怯える幽州節度使劉總はひたすら管轄八州をあげて帰服を望んでいた。
・總は幽州三分割を提議していたが、無能な皇帝と経略のない宰相[杜元潁や崔植等]は幽州
より富裕な瀛莫を切り離すだけの策を講じ、しかも瀛莫にはには軽量の權知京兆尹盧士玫を観察
使として長慶元[821年]年3月に送り込んだ。
・7月幽州で軍乱が起こり節度使張弘靖が捕らえられ、將朱克融[滔の孫]が自立した
瀛莫の諸将兵は幽州兵であり、8月蜂起して士玫を捕らえた。
・唐朝は幽州の乱を聞き、瀛莫を節度使にしたようだが実質はなかった。
・12月朱克融は幽州を与えられ瀛莫も附属した。
・新唐書方鎭年表では長慶2年[822年]廃止となっているが形式的なものである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

徳棣都団練守捉使 保信軍節度使

2012-06-28 19:20:18 | Weblog
・興元元年[784年]幽州朱滔・魏博田悦と反乱していた王武俊は悦と共に帰国し
成徳恒冀深趙四州を与えられた。
・さらに滔を經城に大破した功績により徳棣二州をも加増され、貞元元年[785年]
子の士眞が徳棣観察使?[都団練守捉使]となった。一応は分領であるが六州とも武俊の支配下にあった。
・貞元17年[801年]武俊が卒すると、士眞が成徳を嗣ぎ名目上も一体化した。
・元和4年[809年]士眞が卒すると、憲宗皇帝は士眞の子承宗の継承を容易に認めよ
うとはしなかった。しかし淮西を主敵とするため、妥協策として徳棣二州を保信軍節
度使とし、9月一族の州刺史薛昌朝[嵩の子,王氏之婿]に与えることで収めようとした。
・ところが魏博田季安に唆された承宗は昌朝を捉えて反旗を翻した。
・憲宗皇帝は怒り、10月成徳討伐の軍を起こしたが成功しなかった。
・征討軍の敗戦続きと、淮西征討が進展しないため、元和5年[810年]7月徳棣二州を承宗
に与え保信軍節度使は廃止されることになった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

安黄奉義軍節度使

2012-06-27 19:19:25 | Weblog
・興元元年[784年]江西嗣曹王皐は淮西李希烈を破り安州を陥し、伊愼を刺史とした。
・貞元15年[799年]淮西呉少誠が反した。江南地方を防禦するため、4月伊愼を安黄節度使とした。
・伊愼は少誠の南下を防ぎきりその功績から、貞元19年[803年]奉義軍の號を与えられた。
・永貞元年[805年]には入朝して右僕射となった。
・元和元年[806年]正月愼之子である留後宥が安州刺史兼安州留後となった。
名目上は廃鎭であるが実質的には安州刺史は継承であった。
・元和5年[810年]12月宥の母が京師で亡くなり服喪となった。鄂岳觀察使郗士美は
この機会をとらえて宥を京師に戻らせることに成功した。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

卭州 [工+卩 こう]永平軍節度使

2012-06-26 19:17:55 | Weblog

・宦官田令孜は失脚後もその兄西川節度使陳敬瑄を操作して影響力を維持していた。
・ところが故將王建[前蜀の祖]の扱いを間違い攻撃をうけることになった。
・昭宗皇帝は令孜を憎み、文徳元年[888年]12月宰相韋昭度を派遣して追討させることとし。
実兵力を持つ王建を永平軍節度使とし、邛蜀黎雅四州を領させて行營諸軍都指揮使とした。
四州は領州とはいえ建が実力で制圧しなければいけないものであった。
・建が卭州に入ったのは大順元年[890年]閏9月である。
・大順2年[891年]8月建は成都を陥し西川留後となり、10月永平軍を廃し西川に統合した。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

卭[工+卩 こう]州 定邊軍節度使

2012-06-25 19:17:05 | Weblog

・咸通9年[868年][新書方鎭表では咸通8年]鳳翔少尹李師望が、勢力を拡大している
南詔から劍南地域を防禦する方策を提議した。
・師望は西川節度の管轄は広大であるために成都と前線である卭州の連携が困難で有り、
卭州に定邊軍節度を設けて防禦に専念させるべきだとした。
・そこで成都を緊急時の避難地として重視する唐朝は策を受け、卭州に嶲・眉・蜀・雅
嘉・黎州をつけて分領した。
・提案者の李師望が節度使として赴任し、西川節度使は南詔との交渉權を定邊に委譲した。
・師望は貪欲で南詔との関係を悪化させてまで収斂し、稼ぎまくると口実を設けて辞任し、
竇滂に代わった。滂もまた貪欲であった。
・咸通10年[869年]11月南詔は大挙して侵攻し、滂は遁走し、成都が包囲された。
・軍備ができていない成都は陥落の危機に瀕し、民兵を総動員して必死に防禦に努めた。
・唐朝は神策軍を派遣し、和議を結んでなんとか撤退にこぎつけたが、西川一帯は荒廃した。
・咸通11年[870年]正月定邊軍は廃止され、領州や外交権は西川に戻った。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

壽州都団練観察使

2012-06-24 19:16:07 | Weblog
・建中4年[783年]に河北・淮西・關内で戦乱が起こり壽州にも団練使が置かれた。
・淮西李希烈は勢力拡大を図り、諸将を派遣し河南・淮南・鄂岳へと侵攻しはじめ、
唐朝の財源たる淮南・浙江地方が危機に瀕した。淮南陳少遊は希烈を懼れて帰服する傾向を見せた。
・しかし壽州刺史張建封は断固として抗戦する構えをくずさず。唐朝は興元元年[784年]
壽州に都団練観察使を置き、濠・盧州の三州を領させた。このため希烈は東進をあきらめ淮南は守られた。
・戦乱が収まった貞元4年[788年]、漕運の重要拠点である徐州には年少の高明應が刺史
となっているだけであった。宰相李泌は有能な建封を徐州に移し、泗濠州を附けて節度使として
淄青平盧李納に対抗させることにした。
・壽州は盧州とともに淮南領にもどり、団練使だけが存置された。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

湖州 忠國軍節度使

2012-06-23 14:05:50 | Weblog
・浙西の湖州に置かれた方鎭である。新紀方鎭表では文徳元年[888年]であるが、これは李師悦が湖州刺史と
なった年と考えられ。通鑑では乾寧3年[896年]11月に記載されている。
・師悦は武寧將として黄巣の首を献上した功績により昇進した。
・豊かな湖州を統治し貢献したため、一州でもって節度使として遇された。
・しかし命令が届かない間に師悦は卒し、子の彦微が知州事として嗣いだ。
その後は忠國軍節度使は存在したのかは確かではない。
・彦微は淮南楊行密配下となるが乾寧4年[897年]逐われ。浙西銭鏐配下として高彦・高澧と刺史は続いた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

耀州 義勝軍節度使

2012-06-22 13:16:54 | Weblog
・天祐3年[906年]鳳翔李茂貞が私造した方鎭である。
・京兆の華原縣を耀州、美原縣を鼎州として領州とし將李彦韜[温韜]を節度使とした。韜は盗賊上がりであり
華原縣を基盤とし、一時朱全忠に降ったが、すぐ茂貞に復帰した。唐の帝陵等の盗掘により財を築いていた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

彭州 威戎軍節度使

2012-06-21 13:52:51 | Weblog
・文徳元年[888年]西川陳敬瑄[監軍田令孜の兄]によって私造された方鎭である。
・王建[前蜀の建国者]が西川を攻撃し、防衛の為令孜は旧將楊晟に成都北部の彭州を与えて
威戎軍節度使として防禦させた。
・晟は光啓2年[886年]に興鳳感義軍節度使となったが王行瑜に攻められ敗走し、
龍・文・成・茂などの辺境の小州を支配していた。そのため領州は彭州を併せて五州となる。
・晟は王建と勇戦したが、乾寧元年[894年]5月彭州は陥ちて戦死し廃鎭となった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

桂州管内経略招討観察使 静江軍節度使

2012-06-20 17:43:19 | Weblog
・景雲元年[711年]桂州に置管内経略使が置かれ、桂梧賀連柳富昭蒙嚴環融古思唐龔十四州を領した。
以前より置かれていた都督府の再編成である。
・桂管・容管は邕管や安南とは違い外寇を受けることは少ないが、住民は蛮族であり、
領州のほとんどは名ばかりであった。
・安史の乱により唐朝の統治が緩んだ乾元~永泰年間[758-765年]、湖南南部から桂管にかけては
西原蠻[黄氏]が蜂起し経略使邢濟が討伐をおこなった。
・大暦2年[767年]山獠が桂州を陥し、経略使李良は奔り。桂管は一時失われた・
・廣徳2年討伐の必要性から邕州管内を統合したが征討が終了した大暦5年邕管を分離した。
・大暦5年[770年]奸悪ではあるが能吏の黎幹が防禦經略招討觀察等使となり、6年嶺南李勉の支援を得
て平定することができた。
・大暦8年[773年]李昌巙が邕管・桂管を統合して支配し、次の盧嶽につぎ貞元元年に分離した。
・貞元後、桂管は中級文官の赴任先となっていった。
・乾符3年[876年]安南に派遣されていた軍が乱し観察使李瓉が逐われた。
・中和2年[882年]軍乱が起こり使張従訓が逐われた。
・乾寧2年[895年]將劉士政が経略使周元靜を殺して自立した。
・光化3年[900年]湖南馬殷は勢力拡大のため將李瓊を派遣して桂管諸州を陥した。
弱体な軍備しかもたない劉士政はたちまち殺され、瓊が留後となった。
・この歳、桂管経略使は静江軍節度と號された。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

劍南東川節度使 その3

2012-06-19 09:51:43 | Weblog
・その後はまた平穏に戻り中級文官の赴任地となった。
・咸通10年[869年]定邊軍設置の失策より南詔は再び成都に来寇し西川諸州を陥した。
東川獨狐霖もまた対処できず、神策軍より顔慶復が派遣されて講和させた。
・廣明元年[880年]黄巣の侵攻に備えて、西川に陳敬瑄・東川に楊師立という宦官田令孜の配下が任ぜられた。
・師立は対黄巣戦に協力したが、敬瑄ばかりが優遇されることに憤慨し、
中和4年[884年]3月反した。しかし西川将高仁厚が侵攻すると6月には誅せられた。
・東川は高仁厚に与えられたが、光啓2年[886年]敬瑄はこれを疑って攻撃して殺した。
・神策顧彥朗が東川に入り、敬瑄を攻撃する王建とは友好関係にあったが大順元年卒した。
弟彦暉は建とは緊張関係に有り大順2年[891年]西川を制圧した建は東川併呑を図った。
・乾寧元年[894年]より連年建による侵攻が始まり、乾寧4年[897年]東川諸州は王建の支配下になった。
・以降「前蜀」に移行するまで王建配下の諸将が留後・節度使をつとめた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

劍南東川節度使 その2

2012-06-18 11:39:57 | Weblog
・叔明の統治は貞元2年[786年]まで続き、その後も兵馬使王叔邕が昇格して貞元18年[802年]まで続いた。
19年より行軍司馬李康が昇格し節度使となった。
・永貞元年[805年]西川韋皐が卒すると、その幕僚達は劉闢を押し立てて自立しようとした。即位したて
の憲宗皇帝はそれをみとめたが、闢は東川も併呑しようとした。そのため元和元年[806年]高崇文が
討伐に派遣された。康は闢軍に敗北して捕らわれ、韋丹が任命されたが、
丹は崇文軍の根拠地が必要であると上奏し譲った。
・崇文は3月梓州を回復し、10月西川も平定した。山西嚴礪が東川に移された。
・その後は安定し主に高位文官[李逢吉・王涯・李絳等]の赴任先となった。
・太和3年[829年]西川は杜元潁の失政により南詔の来寇を招き成都外郭が陥落した。
東川郭は西川を兼務したが、軍備には欠け、南詔と交渉して撤退を求める他はなかった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

劍南東川節度使 その1

2012-06-17 08:59:40 | Weblog
・劍南道は山岳部が多く交通が困難であり一括統治が困難であった。そのため至徳2年[757年]には
西川と東川に分離された。
・梓州に劔南東川節度使が置かれ梓遂綿劔龍閬普陵瀘榮資簡十二州を領したが初期の節度使は不明である。
・乾元2年[759年]に荊南節度が混乱したため昌渝合三州が移管された。
・上元元年[760年]兵馬使段子璋が反し、節度使李奐は敗走した。西川嚴武が両道を統括し鎮圧した。
・廣徳二年[764年]東川十五州は西川に統合された。
・永泰元年[765年]嚴武が卒し、郭英乂が後任となると、將崔寧が蜂起し、英乂は敗死し、諸将も自立した。
・大暦元年[766年]副元帥杜鴻漸は、先鋒として山西張獻誠に東川を兼ねさせも寧を討伐しようとしたが
かえって敗北した。
・大暦2年やむをえず鴻漸は寧に西川を与え、1月遂州に東川都防禦観察使を置いたが、
7月梓州に節度使を復置して李(鮮于)叔明を登用した。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

浙江東道都団練観察使 威勝・義勝・鎭東節度使 その3

2012-06-14 08:46:48 | Weblog
・乾符6年[879年]劉漢宏が観察使となった。彼は盗賊より帰順し、黄巣の侵攻に怯えて王鐸が荊南より遁走した後、
江陵を掠奪して再び賊になり、まもなく帰順して宿州刺史に任ぜられたが不満を言い立てて浙東を与えられたという
札付きの賊である。
・麾下の諸州は陳晟が睦州。鐘季文が明州。杜雄が台州。朱褒が溫州。盧約が處州に各據して自立しており、
まったく統制はとれていなかった。
・中和2年[882年]より漢宏は富裕の地である浙西の杭州の領有をめざして侵攻を重ねたが、地元民兵を中心とする
董昌[先鋒は錢鏐]に撃退された。
・中和3年[883年]浙東観察使は義勝軍節度に昇格した。
・光啓2年[886年]董昌は越州を陥し漢宏を殺し、知浙東軍府事を自称した。杭州は錢鏐に譲った。
・光啓3年[887年]義勝軍節度は威勝軍節度と改号され昌が節度使となった。
・昌は唐朝への貢納は欠かさず、そのため高位の官職を次々と与えられた。管轄諸州は自立したままであった。
・乾寧2年[895年]昌は突如、羅平国皇帝を名乗り百官を置いた。
・杭州錢鏐はこれを批判したため、昌はまもなく撤回したが、鏐はこれを伐ち浙東を併せようとした。
・乾寧3年[896年]鏐は昌を誅した。唐朝は宰相王搏を送って鎭の回収を図ったが入れなかった。
・10月威勝節度は鎭東節度と改称され鏐が浙西と併領することになった。
・以降鏐の呉越国の支配下になっていく。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする