(目黒不動;広重の江戸時代偽物)
・昨日ギプス外して行動したのが悪かった。朝痛くて目が覚めた。夜もギプスはめていたのだが痛みが軽くなることはなかった。。安静にすることは大事。
・東京文化財ウィークが終わることに気づく。すでに増上寺旧経蔵公開は終了。昨日の祐天寺(祐天上人像公開)も終わった模様。今日は体調が悪いが、ウォーキングしない前提で急いで出てきました。
いつもの目黒大円寺。
正月などけっこう公開してますが、鎌倉初期の清凉寺式釈迦立像(国重文)。かなり前に見たきりなので、記憶より小さく感じた。ただ清凉寺の本家も小さかったよな。。ここはガイドによれば撮影可能。
大円寺五百羅漢は明和の大火の供養という伝承がありますが謎が多い。
八百屋お七の供養のため仏門に入った西運がこの下の目黒川に橋をかけた、その旨の記載のある橋供養塔。今まで気が付かなかったが台石に鉢状穴がありました。
・牛込に移動。山伏町という名前いいよね。林羅山と林一族墓。ここの開放は年一回。説明をいただけるがすこしむつかしいです。江戸時代における儒学のおはなしを断片的な知識とつなげるのはたいへん。
当然、儒教の墓制を見に来てるのですが、護国寺近くの墓地に儒教墓が集まっていると聞いて、いつか許可もらって行こうと思う。方形の石槨で固め墓碑と墓誌を建てる、もしくは土饅頭に墓碑という印象はあったが、もともとちゃんと規定のある儒教墓は、石を使わないぽかったり、このあたりはちゃんと勉強しないとなあ。護国寺の墓は丸い井戸みたいな石槨に墓誌を立ててて、これは座棺なんだろう。
江戸時代は檀家制度や衛生上の問題から田舎か大大名でもないかぎりお寺に墓を作ることが義務付けられてたわけで、礼儀を説く朱子学をもって方広寺の鐘のこじつけなど家康にも物申せる勢いで江戸へ来た林羅山、三代で大学頭として幕府に組み付いた(でも勢力争いに負け気味)が、さらに八代で大名からの養子により再興するまで石高を上げつづけた。屋敷内に家族墓地を持ったのが今回開放されたここ(本家は幕末(維新後?)に表舞台から姿を消した)。都市部は基本火葬、土葬でも寝棺は時代がくだらないとない(あるいはまとめられてしまい原型を留めない)もので、ここに八代以降四つの大きな寝棺を埋めたと思われる石槨墓があるのは時代的にも頷けるとともに、林家が大名以上の扱いをされていたということである。
林羅山の当初は剃髪した出家の僧形とし、役人に任ぜられてからも儒僧という名だったがのち武士と同等とされた。墓地はもともとかなり広かったのを幕末以後縮め、片付けられた石槨も多く今もいくつか破却されかけており、たまたま最後の儒教墓4基が残っただけで元はどれだけあったのかわからない(3代で明暦の大火によりこちらに移転しているので少なくともそれ以前のものは墓標のみ)。
幕末以後林家は存続するもののこの土地が墓地として使われることはなく、最終的に史跡として区に買われたが、分家にはここに花を手向けるところもあるみたいだけど、基本は区の管理下で公開も年一回。檀家制度から離れていることが、家がなくなるとどんなに有名人でも墓地の危機に陥ることになるという、また寺よりも人が訪れにくく荒れ果てるという、大井町の山内容堂墓を思い起こさせるかんじ。
野中兼山ら高知の儒教墓や南西諸島にのこるものは上も石で塞いだ箱状のもの。真ん中を野天にあけているのは後から土饅頭の周囲に石をまわしたのか石が落ちて抜いたのかわからない。木が生えているのは植えたのではなく生えてしまっただけと思われる(整備前にはこの周囲も木々が生えていたのだろう)。野中兼山らの墓はその形から中に宝が詰まっているという噂があったと聞いた。中の木棺が腐って天井が凹むので穴が開くこともある。しかしこちらは元から無かったぽい。
初代林羅山墓。墓碑には四面びっしり文字が刻まれて、必ずしも元からのものではないかもしれないが時代はある。儒教墓の墓碑は戒名はないが特有の判りやすい型式があり、ただ、字体など自由で墓碑ごとに結構違う。
七代の墓碑だが(このあと絶えて養子の八代が再興)向かって右脇に上杉鷹山の撰がある
再興の八代。
・佐藤一斎の撰、市河米庵の書による八代墓碑。岩村藩主松平乗薀は湯島聖堂で学んでいるが、松平定信が寛政異学の禁を代表とする、寛政の改革を進める上で朱子学を強引に利用すべく林家途絶の機会に、乗薀三男松平乗衡を8代に推した。
佐藤一斎は岩村藩より8代の門弟として、改名した昌平坂学問所に入り、儒官となってのち異学の禁を時に破りつつ陽明学も含めて広く教え、佐久間象山など多数の幕末の大物を輩出、松下村塾界隈や坂本龍馬といった志士にまで学問を通じて影響していった。但肝心の8代については吉田松陰は大学頭として対外交渉に武力を好まず保守的な面を批判し、人物として必ずしも賛だけではない。
小布施の豪商の一族(北斎の弟子でも有名)高井鴻山は忍者屋敷のような建物(少し前まではカラクリや抜け穴を見せていたが当時のままのものではなかったのか今は見せていない)で志士などと会談したというが、そもそも昌平坂学問所にて佐藤一斎に学んでおり、陽明学に明るい儒学者として知られた。同門の佐久間象山や大塩平八郎とも接点を持っていた。
同様に昌平坂で佐藤一斎に師事した渡辺崋山による有名な肖像がある。ここに名のある市河米庵も描いている(国重文)。市河米庵の書はその世界ではかなり評価が高いそうです。
佐藤一斎
市河米庵
・神楽坂を下っておしまい。
話題一転。
・アスリートが上で芸人が下とかそういう単純な決めつけも無意識に前提にしてしまう、そんな住民を持つのがTwitterです。
・めまい併発、ぐったり。
・NHKの銀座風景再現番組。日劇はだいぶあとまであったよね、数寄屋橋も高速が通った時点で暗渠かどうかに関わらず形状はほぼ今のようなかんじ。朝日新聞はさすがにここにあった時代は知らない。ペコちゃん看板のとこは今も不二家ある。球形の看板はなんか見た記憶あるのだが。和光の前は今も丸いビルだし、三越が小さいほかはさほど昔の感じはしない。戦中、日劇には兵隊さんの大きな看板があったという。
和光〜日劇(昭和初期)
・ドングリはむしろあるものと思ってた。西表島のは日本一ときいたが、そのまま持ち帰るとなんか害虫とかいるかもしれないので煮沸など。でも、モダマのインパクトはないなあ。
・沖縄の島の名前を呼ぶとき「本島」だけはたしかに違和感というか、島の名前として並列でなく、何かいい呼び名はないかと思ったなあ。でも沖縄県だから沖縄島というのもおかしいな。琉球島というともっとおかしいか。。
・せっかく回復しかかった背筋がこの連休で死んだので、明日はじっと仕事します。