日本語が第一言語になる我々にとっては残念ながら、現代の科学界では英語こそが世界の中心です。
科学はその性質からして否応なしに競争を強いるものであり、我々もまた、その競争の中で英語での表現を強いられています。医学を含めた自然科学では、社会科学、人文科学ほどに英語表現・パフォーマンスの優秀を問われることはありませんが、それでもある程度は英語での表現力を問われることになります。
この「強いられた言語」を使わざるをえない状況で、英語を第一言語にする人たち所謂ネイティブスピーカーを上回る表現力を発揮するのは、不可能とは言いませんが至難です。費用対効果を考えると、そこに必要以上の労を費やすのは、無駄になることも多いでしょう。
それなら、どうすればいいのか。
多くの先達が同様の結論に達していますが、逆境を好機に変えればいい、つまり「日本語による思考の強みを活かすべき」なのでしょう。英語での表現力はある程度捨てて、思考の質で勝負するしかないと思われます。
日本語はおそらく世界で一番複雑怪奇な言語の一つであり、例えば表意文字である漢字と、表音文字である仮名を併用しているように、とても柔軟な表現と思考を可能にします。この日本語の特徴あるいは恩恵をこそ我々は大事にすべきです。
もはや科学の分野で欧米のキャッチアップをすればいいという時代はとっくに終わっています。すでに英語で書かれた内容を日本語に書き直すだけの作業を期待される時代ではなく、これまでの世界になかった日本発の新しい内容を生み出す作業こそが日本の科学者には求められています。その時、「日本語で考える」「日本の文化的背景から着想を得る」ということは、英語をはじめとする他の言語を第一言語とする人たちには真似できないという意味で、一つの強みになりえるのです。
おそらくは、そこに「勝てる土俵」があります。
我々は、勝てる土俵の上でこそ、勝負すべきでしょう。すなわち、「日本語で考えたことを英語で発信する」というスタンスで勝負すべきであり、英語で考えて英語で発信するのはやはり避けるべきなのではないかと考えています。数式で考える数学や理論物理学などの分野はともかく、他国語での論理的思考はどうしても科学的に質が落ちますから。他国語思考による脳への負荷の影響とも言われます。日常生活においては思考レベルが多少低下しても問題にならなければ構いませんが、研究の最先端で最高峰の勝負をするには間違いなく不利であり、真剣勝負に挑む際にわざわざ負ける土俵を選ぶのは愚かしいでしょう。
一点付け加えると、私は他国語から日本語への変換もとても大事な作業であると思っています。
かつて「Physics」という英語をただフィズィクスと仮名表記するのではなく「物理学」あるいは「究理学」と訳したように、日本文化外に現れた概念を日本語に取り込む作業は、未来の日本語を豊かにし、日本文化を幅広いものにする意味で、欠かせないものです。日本の科学者は、かつても、今も、そしてこれからも、この作業を行っていかなければならないでしょう。
それがきっと、日本が明日勝てる土俵を作ることにもなりますから。
科学はその性質からして否応なしに競争を強いるものであり、我々もまた、その競争の中で英語での表現を強いられています。医学を含めた自然科学では、社会科学、人文科学ほどに英語表現・パフォーマンスの優秀を問われることはありませんが、それでもある程度は英語での表現力を問われることになります。
この「強いられた言語」を使わざるをえない状況で、英語を第一言語にする人たち所謂ネイティブスピーカーを上回る表現力を発揮するのは、不可能とは言いませんが至難です。費用対効果を考えると、そこに必要以上の労を費やすのは、無駄になることも多いでしょう。
それなら、どうすればいいのか。
多くの先達が同様の結論に達していますが、逆境を好機に変えればいい、つまり「日本語による思考の強みを活かすべき」なのでしょう。英語での表現力はある程度捨てて、思考の質で勝負するしかないと思われます。
日本語はおそらく世界で一番複雑怪奇な言語の一つであり、例えば表意文字である漢字と、表音文字である仮名を併用しているように、とても柔軟な表現と思考を可能にします。この日本語の特徴あるいは恩恵をこそ我々は大事にすべきです。
もはや科学の分野で欧米のキャッチアップをすればいいという時代はとっくに終わっています。すでに英語で書かれた内容を日本語に書き直すだけの作業を期待される時代ではなく、これまでの世界になかった日本発の新しい内容を生み出す作業こそが日本の科学者には求められています。その時、「日本語で考える」「日本の文化的背景から着想を得る」ということは、英語をはじめとする他の言語を第一言語とする人たちには真似できないという意味で、一つの強みになりえるのです。
おそらくは、そこに「勝てる土俵」があります。
我々は、勝てる土俵の上でこそ、勝負すべきでしょう。すなわち、「日本語で考えたことを英語で発信する」というスタンスで勝負すべきであり、英語で考えて英語で発信するのはやはり避けるべきなのではないかと考えています。数式で考える数学や理論物理学などの分野はともかく、他国語での論理的思考はどうしても科学的に質が落ちますから。他国語思考による脳への負荷の影響とも言われます。日常生活においては思考レベルが多少低下しても問題にならなければ構いませんが、研究の最先端で最高峰の勝負をするには間違いなく不利であり、真剣勝負に挑む際にわざわざ負ける土俵を選ぶのは愚かしいでしょう。
一点付け加えると、私は他国語から日本語への変換もとても大事な作業であると思っています。
かつて「Physics」という英語をただフィズィクスと仮名表記するのではなく「物理学」あるいは「究理学」と訳したように、日本文化外に現れた概念を日本語に取り込む作業は、未来の日本語を豊かにし、日本文化を幅広いものにする意味で、欠かせないものです。日本の科学者は、かつても、今も、そしてこれからも、この作業を行っていかなければならないでしょう。
それがきっと、日本が明日勝てる土俵を作ることにもなりますから。