週末、わたしは呉地方総監部で行われた
「海将を囲む会」のご招待を受けて行ってまいりました。
諸般の事情によりそのご報告は10日ほど後にさせて頂きますが、
そのお知らせを頂き、またしても呉に赴くための計画を立てているとき、
わたしはものすごくいいことを思いついてしまったのです。
「海将を囲む前にうさぎに囲まれるというのはどうだろうか」
コメント欄で話題になった「うさぎの島」こと瀬戸内海に浮かぶ
小さな島、大久野島は呉より広島空港から近いのです。
というわけで、思い立ったが即実行、直前になって大久野島内にある宿泊施設、
大久野島休暇村の予約を取り、朝一の飛行機に乗りました。
なんども竅の飛行機に乗っていますが、このマークを見たのは初めて。
エンジンはロールスロイスだったんですね。
空港で車を借り、ナビを入れてたどり着いたのは忠海港。
最近観光客が激増しているのか、このような案内所がありました。
中でフェリーの切符を買おうとすると、
「大久野島は島内車で走れませんよ」
「車は停めておけるんですね。休暇村までは」
「シャトルバスが出てます」
「じゃ車で行きます」
いつも持ち歩いているカートでフェリーに乗るのはちょっと、
と思いそう告げたのですが、
「フェリー代がかかりますよ?」
そりゃ普通かかるだろう。
どうも、ほとんどの人は忠海に車を置いていく模様。
しかしわたしは何とかして車で行かせまいとするおばちゃんを振り切り、
2000円くらいのフェリー料金を払って車で行くことにしました。
「囲む会」出席のため着替えのガーメントもあったりして、
とにかく荷物が多かったのです。
車なしで行く人たちのための小舟に乗り込んでいくのは
何とインド人の一家。
お父さんは子供達に全て日本語で話しかけていました。
ホワイトフリッパー(白いヒレ)という名前の船です。
フェリーが来るのに30分くらいここで待ちました。
フェリー到着。
「忠海ー大久野ー盛」とあり、本土と大三島をつなぐ便です。
乗り込むと係りの人に
「一番前に停めてください」
と言われました。
なんと、大久野島で降りる車はわたしのだけだったのです。
(この後一台バイクがきた)
ダッシュボードに「大久野」という札を置くように言われ、
デッキに上がっていると、何と5分も経たないうちに到着のお知らせ。
船着場に着いた後も目にも留まらぬ早業でブリッジが架けられ、
気がついたら大久野島に到着しておりました。
フェリー発着場はすでにうさぎパラダイスとなっております。
ここに来る人たちの目的はうさぎなんだね。
っていうかこの島にはうさぎと毒ガス工場跡しかないわけだが。
うさぎは人を見ると寄っていく習性が・・・ある訳ないだろ。
つまりここのうさぎは人に餌をもらって生きているらしいことが早くも判明。
休暇村行きのバスに乗り込むと、バスの運転手さんの上着が・・。
兎人と書いて「うさんちゅ」と読む。
ホテルのロビーには「うさんちゅコーヒー」もあり〼。
カフェも食堂も充実していますが、それもそのはず、
この島には食べ物屋さんというのは休暇村の中にしかないのです。
ホテルに荷物を預けて散策に出ましたが、チェックインの時
「禁煙お二人ですね」
「いえ、一人ですが」
「(一瞬の沈黙)」
やっぱりこんなところに一人で泊まる人って珍しいんですかね。
「囲む会」には合流する予定のTOですが、今日はどうしても仕事で、
結局わたし一人で来ることになっちゃったんだよう。
この沈黙に何か言わなければいけない気がしてつい、
「事情がありまして」
「はあ・・・・そうだったんですか」
いや、あまり深く考えないでね?
さあ、それでは気を取り直してうさぎに囲まれにGO!
ホテルの前にはすでにうさぎがよりどりみどり状態。
知らなかったんですが、うさぎって窪みに寝るのが好きなんです。
島のあちこちにはこのような窪みがあるのですが、これは
うさぎどもが落ち着くために掘りまくった穴。
見ているとあっちこっちで新しい採掘作業をしていました。
わざわざキャベツ持参でやってくる人たちもあり。
大久野島が昔毒ガス製造工場だった頃の遺跡が残っています。
防空壕を埋めた跡なのかな?などと思ったのですが・・・。
フロントで聞くと1時間あれば島内歩いて一周できるとのこと。
早速一周してみることにしました。
うさぎきたー。
ちょっと歩くと、うさぎが足元に走り寄ってきます。
フェリーの切符を売っていたところで、専用のうさ餌を売っていて、
観光客がそれを与えるほか、ボランティアがしょっちゅう訪れては
世話をしていくので、皆野生の精神を忘れたうさぎに成り下がっているのです。
そこで、わたしは
「5袋買うと1袋おまけ」
というセールス文句にまんまと乗って買った6袋のうさ餌のうち、
最初の一袋を最初に近寄ってきたうさぎに与えることにしました。
休暇村の隣には毒ガス資料館があります。
かつては村上水軍の末裔が住んでいたと言われ、明治時代には
4軒の家があるだけで全人口26人だった島は、
その後逓信省の灯台島隣、さらに日露戦争に備えた芸予要塞となって
島の各地に砲台が作られました。
そして、昭和4年以降は、大日本帝国陸軍によって毒ガスが製造される
「地図から消された島」となっていたのです。
この資料館には島内に残されていた資料や写真、遺物が展示されており、
入場料は100円です。
館内は一切撮影禁止。
この訳がよくわからないのですが・・・著作権とかの問題じゃないだろうし、
小冊子も売っているのになぜ写真を公開してはいけないんでしょう。
ここで製造されていたのは
の4種類の毒ガスでした。
また戦争末期には風船爆弾の製造も行われており、館内には
その素材も展示されていました。
「戦争の悲惨さを 平和の尊さを 生命の重さを」
訴える平和の島、というキャッチフレーズは、経年劣化により
ほとんど肉眼では読むことができなくなっています。
決して間違いではないけど、実のところこういう左翼的ウェットさが
わたしはあまり好きではありません。
ただ淡々と史実を隠さずに展示するだけで十分伝わると思うのですが。
問題提起をするなら、展示物も海外の博物館のように写真公開可にするべきです。
中に展示しきれなかった毒ガス製造用の陶磁器器具が外に置いてありました。
例えば左奥は塩酸や硫酸のタンク、右側の孔のたくさん空いた円盤は
イペリット(ルイサイト、マスタードガス、日本ではきい剤)を作る
素材を塩素化する釜の蓋です。
毒ガス製造にはこのように薬剤の影響を受けにくい陶磁器が多く使われました。
ちなみに「きい剤」というのは文字通り「黄」のことで、
陸軍では当時、一般向けに
ちや(茶) 血液剤 シアン化水素(青酸)
みどり(緑) 催涙剤 クロロアセトフェノン
きい(黄) びらん剤 マスタード(イペリット)
あか(赤) 嘔吐剤 ジフェニルシアノアルシン
あを(青) 窒息剤 ホスゲン
しろ(白) 発煙剤 トリクロロアルシン
などと色の名前で毒ガスを呼んでいました。
このうち青と白だけは大久野島では生産されていなかった薬剤です。
島内の毒ガス製造工場で働いていたのは最盛期で2000人、
延べ6000人弱と言われています。
工場の資材などをすべて植樹で覆い隠していたため、
米軍の偵察機もここに軍需工場があるとは最後まで気づかず
結果として一度も空襲を受けることはありませんでしたが、
島内には防空壕跡が残されています。
この比較的大きな防空壕は「幹部用」ということです。
現地派遣の陸軍将校や工場幹部だけが使用を許された防空壕。
中はコンクリートのかまぼこ型でそのトンネル状の壕には土が被せられています。
内部は高さ2m、幅2m、長さ約5mと結構な広さでした。
地下に掘られた防空壕の反対側出入り口。
左右どちらからでも逃げ込むことができました。
ちなみに従業員の待避壕は、奇遇というのかタチの悪い冗談とでもいうのか、
今ここで生息しているウサギが自分用の穴を掘るように、
地面に1mくらいの穴をいくつか掘っておいて、万が一の時には
逃げ込んでから上に草木を被せることになっていました。
通称「たこつぼ」というこの退避壕、実際に空爆されていたら
ほとんど防御の意味をなさなかったに違いありません。
その前に工場が破壊されて有毒ガスが流れ出す可能性もありました。
何れにしても攻撃されていたら島は壊滅していたのです。
つまり島内の斜面に見られるこれらの石垣は、防空壕の跡などではなく、
昭和30年代にここをリゾート地にする計画ができ、
休暇村が建設された頃に斜面の補強のために作られたもののようですね。
今現在、この海岸は海水浴場になっています。
うさぎの島となったのは2015年からのことで歴史は浅いですが、
現に観光客のほとんどがうさぎをモフるためにきているので、
島の方も思いっきりうさぎをフィーチャーしています。
しかし、戦後この近海では、投棄された毒ガスのボンベなどを拾った
周辺の漁師が被害に遭い死亡するなどという事件も起こっています。
戦後、毒ガス工場の痕跡を消す作業はまず旧日本軍が行いました。
敗戦後一週間にわたって、周辺海域にボンベや製造機械を何でもかんでも
投棄したそうですが、中止命令が出ました。
10月に改めて占領国となったアメリカ陸軍の化学処理部隊がやってきて
ガスの一部と発射筒を焼却、やはりほとんどを海中投棄しています。
イペリットやルイサイトも瀬戸内海のどこかに投棄しようとしたのですが、
機雷の掃海作業が始まっていたため、それは断念したそうです。
ついで処理にやってきたのは中国・四国地方を管轄していたイギリス連邦占領軍でした。
アメリカ陸軍の少佐が指揮をとったこの作業は、瀬戸内周辺の毒ガスを集めて
焼却、土佐沖での海中投棄の後、島全体に次亜塩素酸カルシウム(さらし粉)
を撒くというものでした。
この時、帝国人絹(帝人)はこの島にあった
「海水から塩を作る機器」
を帝人工場に転用する契約を結んだため、処理に参入して最前線で作業を行なっています。
この時指揮を執ったアメリカ陸軍の「ケミカル・エキスパート」、
W・E・ウィリアムソン少佐(右)は作業をするうちルイサイトに被災し、
体調を崩していっとき戦線離脱しましたが、
「イペリット遺棄作業はイギリス連邦占領軍の敵兵器処理班の手に負えない」
という考えから(信用してなかったんですねわかります)
回復してから復帰して作業をやり遂げています。
さて、こんな感じで遺構を眺めながら、そして道中好みのうさぎがいたら
バッグに隠し持ったうさ餌をやろうと思い、一本道を歩いて行くことにしました。
すると見るからに美貌の(うさぎにも美醜あり)白うさぎが出てきたので、
餌をまいてやりました。
すると後ろから大人うさぎが突進してきました。
仲良ししているのではなく、大人が子供の餌を横取りしようとしているのです。
穴掘り作業中のうさぎ。
ところでうさぎの目ってこんな怖かったっけ?
船が通行する大三島との海峡を望む海岸には、
スコープを覗いて船の速度を調べる方法が書いてありました。
大三島の端から端まで通過する時間を計り、距離とされる
850mを秒で割って時速を出す。
よっぽど暇ならやってみてもいいけどなあ・・・。
この最後に書いてある1999年のギネス記録によると、
世界で最も速い船の速度は時速511kmってのがすごい。
新幹線の二倍って、これなんの船?
海岸の次にはキャンプ場がありました。
キャンプ場には柵があって中にうさぎが入れないようになっています。
テントの周りにうさぎがうろうろしていると可愛いですが、
やっぱり落とすものを落として行くのでね。
(ただし兎の糞は外気にある以上ほとんど無臭、踏んでも問題なし)
このうさちゃんはキャンプ場外のバーベキューテーブルの近くで寝そべっていました。
フェリー発着場まで来ると、高校生の集団とすれ違いました。
近隣の高校が校外学習とかに来ているんでしょうか。
その辺にたむろってうさぎを構い出します。
その中で女の子に「可愛い〜!」と言われまくっていた白うさぎ。
うさぎは白くて当たり前、なんですが、なぜかここでは希少種です。
確かにこの子は茶色や黒のアナウサギとは別の種類で、オーソドックスな
赤い目の「普通のうさぎ」でした。
アナウサギは実は侵略的外来種ワースト100の一つだったりします。
ところでてっきりわたしはここにうさぎがいる訳を、
「毒ガス工場で実験用に使われていたうさぎの生き残り」
だと思っていたのですが、実は実験用のうさぎは戦後、
おそらく毒ガス処理の際に殺処分されてしまい、生き残りも
当時の食糧難のあおりを受けて人々に食べられてしまいました(-人-)ナムー
現在ここにいるウサギは、1971年当時ここにあった小学校で
飼われていたうさぎ8羽の子孫だと言われています。
国民休暇村になった時、マスコット的な動物を入れることになり、
サルやシカなどが検討されたそうですが、結果この8羽を祖として、
現在では鼠算式に増えた結果、700羽になっています。
フェリー乗り場までやってきて自分の車の横を通り過ぎたら
下でうさぎが寝ているのに気がつきました。
明日車を動かす時に下にうさぎがいないか気をつけよう、
と考えながらわたしは島を海岸に沿って歩いて行きました。
続く。