ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

ニューポール17と第一次世界大戦〜エンパイア・ステート航空科学博物館

2020-03-03 | 航空機

ニューヨークの超郊外、グレンヴィルというのは風光明媚な田舎です。
わたしたちはここに行ったとき、小さなモールに隣接した
それは立派な建物の一階にある良さそうなレストランに行ったのですが、
その建物は医療機関付きの高級老人ホームでした。

建物の一階には高級品を扱うちょっとしたブティックや販売店があり、
なんと驚くことに画廊が入っていたりするのです。

はたしてこのレストランに入ってみると、周りは老人と
彼らに会いにきたらしい家族ばかりでした。

「面会に来た家族と食事をするためのレストランなんだね」

わたしたちが客層を見てヒソヒソ話をしていたのですが、そのうち
隣のテーブルに座った中年男性が、その母親らしい女性に対し、
実にぶっきらぼうな態度、子供を叱るような口調なのに気がつきました。

男性はアメリカ人らしくショートパンツというラフな格好をしていましたが、
眼鏡をかけてみるからに高学歴な雰囲気を漂わせており、こんな高級施設に
親を預けるくらいですので多分富裕層でもあるのでしょう。

しかし、歳をとって不明瞭なことを喋る母親に対する苛立ちを隠そうともせず、
ぞんざいな態度で接しているのが外国人の我々にもわかりました。

わたしはまず、アメリカ人にも人前でこんな態度を見せる人がいるのに驚き、
自分の学歴や今日の地位、経済力なども、その目の前の母親が
一生懸命彼を育ててきたからこそ形成されたはずなのに、
そのことに対しては何の感謝もないかのように思える彼の態度に
他人事ながらうっすらと不快にすらなったものです。

こんな至れり尽くせりの施設に預け、自分一人だけでとはいえ、
週末に面会に来ているからには、彼なりに母親を愛しているのでしょうけど。

 

話がいきなり脱線しました。
ESAMの説明に戻りましょう。

イアハートのロッキードの向かいには、

Nieuport (ニューポール)17C.1 

があります。

ニューポール(Nieuport)はフランスの航空機会社で、
第一次世界大戦や戦間期の戦闘機を製造したことで知られています。


1902年にニューポール・デュプレ(Nieuport-Duplex)として
ニューポール兄弟により創設され、自動車用電装品の製造を始め、
その後航空機の分野にも乗り出しました。

ちなみにこのニューポール兄弟は、どちらも飛行機事故で亡くなっています。

のちに設計者となったギュスターヴ・ドラージュは「10」を製作し、
第一次世界大戦が始まると、これをフランス陸軍などに売り込みました。

その後、イギリス海軍航空隊が購入し、その有用性が証明されると、
フランス海軍やロシア帝国軍も納入を始めます。

詳しいスペックと歴史などが書かれたノートも置いてあります。
ニューポール社によって開発製作された、いわゆる一葉半タイプの複葉機で、
従来の11タイプよりもエンジンが強力で翼も大きくなっていました。

すごくリアルな搭乗員のマネキン。
翼の上に置いた地図を見て、作戦を確認しているようです。

1916年に配備が始まり、これまでフランス軍が配備していた
11型に置き換えられました。
イギリス戦闘機よりも優れていたため、イギリスの陸軍航空隊、
海軍航空隊からも発注を受けたということです。

この年、フランス航空部隊の戦闘機隊がすべて、
一斉にこの一種類の飛行機を使用していました。

また、敵側のドイツ軍も、鹵獲したニューポール17の機体を
国内の航空機製造会社(ジーメンス)にコピーさせたこともあります。
ただし、これは西部戦線に投入されることはありませんでした。

ところが、これだけヨーロッパ中に普及したニューポール17、
大変残念なことに、機体に設計上の問題がありました。

傑出した運動性と優れた上昇率を誇ったものの、一方
その「セスキプラン」と称する特徴的な一葉半の主翼の下翼は
単桁構造のため大変脆弱で、このためその機体はしばしば

飛行中に分解する

ことががあったというのです。

この壁に描かれた飛行機がどんな事情で落ちたかわかりませんが、
いずれにしてもこの頃の飛行機の安全性は大変低く、
搭乗員はほとんどが初陣で戦死するか、長生きしたとしても
せいぜい何週間かのうちに事故で亡くなったと言われています。

負傷したパイロットを女性の看護師が手当てしています。

第一次世界大戦の時には日本国内で志望者が募られ、その結果
実際に看護「婦」を派遣されたという記録が残っているそうです。
どんな活動をしたかが全く伝えられていないのは残念ですね。

 

また、壁画の手前の犬と一緒にいるライオンの絵をご覧ください。

映画「フライボーイズ」でも描かれていたように、
アメリカ陸軍航空隊から参戦したフランス系アメリカ人の、

ラオール・ラフベリー少佐(1885−1918)

が、ラファイエット航空隊でライオンをペットにしていたのは有名な話です。
ちなみにペットの名前は「ウィスキー」と「ソーダ」だったとか。

ペットを飼うと映画的にはフラグである、という法則の通り?
ラフベリー少佐は17機を撃墜したエースでしたが、1918年、
飛来したドイツ機をニューポール28で迎撃した際被弾し、
燃える機体から飛び降りて戦死しています。

翼にイギリス空軍の国籍マーク、ラウンデルが見えます。

国籍マークは国旗の色を使うところが多いですが、
イギリスは仲の悪い(笑)フランスと国旗の色が同じなので、
同じデザインで赤と青を入れ替えて使っています。

ちなみにドイツ軍は鉄十字を国籍マークとして使っています。
ナチスドイツ時代にもこのマークは普通に使われていたのですが、
どこかの国は、日本の旭日旗には文句をつけるのに、
こちらには一向に何も言わないのは不公平だと思います。

 

さて、ライト兄弟が初の動力飛行を成功させたのが1903年。
2時間以上の滞空飛行に成功したのが1908年。
同年、アメリカ陸軍が飛行機の導入を決め、1911年には
イタリアとオスマン帝国間の戦争で史上初めて
航空機が偵察=戦争に投入されました。

翌年1912年にはイギリス軍が航空機に機銃を積むことを考え出し、
翌年にはメキシコ革命軍が世界初の航空爆撃を行いました。

第一次世界大戦は、国と国との間の戦争で初めて
航空機による戦闘が行われることになったのですが、これは、

なんと人が動力飛行で空を飛び出してからわずか13年後なのです。

現在の13年は、テクノロジーの発達に十分すぎる時間ですが、
この頃はまだまだ人命の犠牲の上に技術の発達を負う側面が強く、
そのため、有名な飛行家の多くが栄光と引き換えに命を落としました。

そんな危険を承知で、人類が登場したばかりの航空機を
戦争に投入し始めたのが、ちょうどこの頃だったのです。

この頃のパイロットの平均寿命は17日と言う説もあれば、
イギリス空軍では配属後2週間で死亡は間違いなしと言われ、
経験の浅いパイロットのそれは11日とされていました。

 

ここに掲示していあるニューポールはイギリス空軍仕様であることから、
ニューポール17の翼の上に設置してあるのはルイス機銃だと思われます。

複葉機の銃はこのように翼の上に設置されて、操縦席から
操作することができるような仕様になっていました。

この架台は「フォスター銃架(マウンティング)」と呼ばれるもので、
イギリス陸軍航空隊のフォスター軍曹が1616年に考案しました。
写真に見られるケーブルは銃の発射を操作するものです。

しかし当時のパイロットというのは、空中で戦闘を行うために、
この超不安定でいつ空中分解してもおかしくない未開の機体を
制御した上で、手動で銃の狙いをつけて撃ち、それを当てた上、
自分は相手の攻撃を避けて初めて生き残っていられたんですね。

そりゃ平均寿命が11日でも無理ないですわ。
だいたい、ほとんどが実戦では初陣で戦死したそうですから。

 

そしてこの謎の槍(笑)

現場で見た時も帰ってきてからもこの正体がわからなかったのですが、
この先代ニューポール11を見て気がつきました。

翼の支柱に槍が・・・。
これは、

ル・プリエールロケット(Le Prieur crocket)

という空対空焼夷ロケット弾で、飛行船や気球を攻撃する武器です。

金属製の弾頭には黒色火薬200gが充填されており、
空気抵抗軽減のために先端部には三角錐のコーンが被せられていました。

パイロットが掴んで投げるのかと思ったのですが、もちろんそうではなく、
コクピットで点火スイッチを入れると発射される仕組みです。

弾道は不安定で有効射程は短く、命中させるのは難しかったそうですが、
一旦命中すれば、機関銃よりも気球や飛行船には効果的なダメージでした。

どんなことにも「名人」というのが現れてくるものですが、
このル・プリエールロケット攻撃が異様に得意な搭乗員がいました。

Willy Coppens

ご本人の回想です。

「想像していただきたいのですが
わたしは電気式のボタンを押して点火を行いバルーンを探して撃った」

みたいなことを言っているのが聞き取れます。

このバルーン攻撃が得意だった人はウイリー・コッペン(Willy Coppens)で、
32基の観測気球を撃墜しています。
動画には彼が撃墜したらしいバルーンが燃え落ちるのが映っています。

この技術に長けていた彼は「バルーン・エース」と呼ばれていました。

ニューポール17登場の頃にはこの攻撃は盛んではなくなっていましたが、
それでも稀にル・プリエールを搭載したタイプも存在したそうです。

「フライボーイズ」にもアメリカから操縦士として第一次世界大戦に
参加した青年たちの群像が描かれていましたが、このヘルメットと
ゴーグルの持ち主であった

ジョージ・オーガスタス・ヴォーン・ジュニア
(George Augusutus Vaughn Jr.)1897−1989

は、その一人であり、戦闘機のエースであり、
平均寿命2週間と言われた当時の空中戦を生き抜いて、
92歳で天寿を全うしたというスーパーヒーローでした。

検索するとebayでサイン入りの写真が出回っていたり(笑)

前回ご紹介したイアハートのライバル、ルース・ニコルズも、
名門ウェルズリーを出て医大を卒業していましたが、彼もまた
プリンストン大学を卒業して飛行士になったという経歴です。

第一次世界大戦時のアメリカのエースの経歴を見ると、

プリンストン(ランシング・ホールデンJr.、チャールズ・ビドル)

コロンビア(ゴーマン・ラーナー、チャールズ・グレイ)

イエール(ウィリアム・バダム、ウィリアム・タウ二世、
     ルイ・ベネットJr.、デイビッド・インガルス)

コーネル(ローレンス・キャラハン、ジョン・ドナルドソン)

ハーバード(デヴィッド・パトナム、ポール・イアカッチ)

など、(特にイエール大学卒業者多し)そうそうたる学歴の
いわゆるエリート層が競って航空隊に身を投じた様子が窺えます。

イギリス空軍第84中隊空軍に派遣された彼は、ここで
7機撃墜(空戦勝利)を記録しました。

1918年になると彼はアメリカ陸軍の航空部隊に参加し、
ソッピースキャメルを愛機として、さらに6勝を挙げています。

ヴォーンは、戦争で生き残ったアメリカで2番目のエースでした。
記録は4機ドイツ機撃墜、7機共同撃墜、気球撃墜1基、撃破1機。

第一次世界大戦時のアメリカ陸軍航空隊の軍服など。

ふと天井を見ると、なんだかお茶目な人が自転車を漕ぐように
空を飛んでいました。

ディピショフ (DePischoff)

1922年にフランスに搭乗した「空飛ぶ自転車」です。
1975年、地元の高校生が制作したレプリカなんだとか。

エンジンを積んでおり、翼幅は5m足らず。
飛べたのか?というとそうでもなかったような・・。

まあ、お遊びで作られた程度だったんではないでしょうか。

1923年には世界で初めて空中給油が行われました。
918 DH-4Bが同型機に対して行ったものです。

その世界初の瞬間がなぜか模型にされていました。

 

続く。

 



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2 Comments

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認知症 (Unknown)
2020-03-03 07:07:32
>こんな至れり尽くせりの施設に預け、自分一人だけでとはいえ、週末に面会に来ているからには、彼なりに母親を愛しているのでしょうけど。

うちも父が認知症で亡くなる前の五年は介護施設でした。始まった頃に様子がおかしいと母から連絡があり、すぐには帰れない距離に住んでいるので、それ程密に接することは出来ませんでしたが、最初はなかなか受け入れられるものではありません。

家内が専門的な知識があり、いろいろ教わりましたが、受け入れて上げるのが本人とまわりに取って、一番いいようです。その方はご自分にそういう知識がないのか、まわりに教えて上げる人がいなかったのでしょうね。

年に二、三回しか会いには行けなかったのですが、慣れて来ると、いろいろと気付かされます。こちらを見ても誰だかはわからないのですが、頭自体は働いていて、それなりに辻褄があっています。

意思もはっきりしていて、施設で出されたものが気に食わないとシレっと床にこぼしたり、好きなものはガメたり(笑)

なぜか新聞の折り込み広告が好きで一生懸命読んでいましたが、もう話さなくなってから、かなりしてから、ある時突然、その内容を声を出して読み上げていたことがありました。ビックリしました。漢字もありましたが、きちんと全部読めていました。

思考そのものまでが減退する訳ではなく、普段はうまく言葉にならない感じで、それが時々、普通に戻るみたいな感じでした。

施設の対応がいいところだったので、本人も落ち着いていました。そんなもんだとわかって来ると、会いに行ったこちらも、話は出来なくても、なんとなく和みますよ(笑)
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日本航空揺籃期 (お節介船屋)
2020-03-03 13:43:23
明治42年西暦1909年航空研究機関「臨時軍用気球研究会」が発足、陸海軍共通の研究機関でしたが気球だけでなく飛行機、飛行船の研究開発が目的でした。

11月日野陸軍大尉と奈良原海軍造兵中技士設計の飛行機製作を決定しました。両機とも翌年完成しましたが飛行に失敗しました。

明治43年西暦1910年代々木練兵場で徳川好敏陸軍大尉がアンリ・フォルマン機で、日野熊蔵陸軍大尉がドイツのグラーデ機で飛んだのが最初の公開飛行でした。
明治44年アメリカのライト兄弟が設計し、ドイツで製造したライト機とフランスブレリオ社のブレリオ12型機を輸入、同年徳川大尉設計の陸軍所沢製造の会式1号が国産されました。
フランスのニューポール製は大正2年NM-3と呼ばれた3座の機を輸入しています。

海軍は明治45年横須賀鎮守府隷下の「航空術研究委員会」が設置され操縦術取得のため要員21名が任命されました。
金子養三海軍大尉がモーリス・ファルマン水上機で追浜で15分飛行しました。
同年米国カーチス社からカーチス水上機も輸入、この両機が海軍最初の飛行機でした。

揺籃期から外国技術の模倣期、自立期を経て一躍世界のトップレベルとなり、一大消耗戦の大東亜戦争に突入し、貧弱な国力と零細な工業基盤で悪戦苦闘し、消滅するまでたった34年でした。
大東亜戦争前から同時代の他国の同種機と比較して性能面ですぐれていましたが、大戦中の大消耗戦に直面し、量産法の不備、基盤関連諸工業の未熟、規格統一の不徹底、陸海軍の協調の無さからの消滅でした。

敗戦後のジェット等技術の発達期に航空開発は禁止され、大きく遅れてしまい軍用機、民間機とも現代の状況です。
参照光人社佐貫亦男監修「日本軍用機写真総集」
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