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ツェッヒ艦長の自決 サブ・ファクトII〜シカゴ科学産業博物館 U-505展示

2023-05-10 | 軍艦

シカゴの科学産業博物館に展示されているU-505の外観についての
「サブ・ファクト」二日目、今日はコニングタワー(司令塔)からです。



今更ですが、潜水艦を仮に縦三つにブツ切りしたとき、
真ん中部分は「Amidships」と称します。

句切れのないこのままで「船の中心」という意味を持つ一つの言葉です。
転じて「みぞおち」「真ん中」というときにも使われます。



まずはそのアミッドシップスに位置する司令塔について。

Uボートの司令塔は前方に2段階の「波消し」「風止め」がついています。
前回説明しましたがこちらの画像の方がわかりやすいかもしれません。

肝心の潜望鏡がありませんが、これは展示の関係上取り外して
別のところに置いてあります。(こちらの説明は後回しにします)

■ 第2U戦隊徽章


司令塔の前方にペイントされた潜水艦と雷状の文字マークは、
フランスのロリアンを拠点にした第2U(ボート)戦隊のエンブレムです。

第二次世界大戦中、Uボート戦隊は、一般に
先の大戦の英雄の名前をちなんで名付けられていました。

U-505が所属していた第2U戦隊は、
第一次世界大戦で5隻のUボートを指揮し、111隻の船を沈め、
「ブルーマックス」(プール・ル・メリット勲章)を授与された、
ラインハルト・ザルツヴェーデル Reinhold Zaltzwedel大尉に因んで

「ザルツヴェーデル戦隊」
Saltzwedel Flotilla

と名付けられました。


名前のイメージそのもの ラインハルト・ザルツヴェーデル大尉



このエンブレムは青い勝利のルーン文字(初期ゲルマン語のアルファベット)
の「S」を右から左に通過するUボートが描かれています。

■ キャプテン・インシグニア



Uボートでは、乗組員を一つのアイデンティティに結束する目的をもって
艦長を讃えるエンブレムを艦長が代わるたびに制定していました。

これはドイツ海軍の公式の許可によるものではありませんでしたが、
エンブレムの多くはこのように司令塔に大々的にペイントされていました。

U-505もまた、1941年8月26日に就役してから、1944年6月4日、
アメリカ海軍のタスクグループによって捕獲されるまでの間、
少なくとも400日以上の間、タワーにエンブレムを飾っており、
その間戴いた艦長の数に応じてそれは3種類ありました。

まず、捕獲されたときのエンブレムを紹介します。

1943年11月8日〜
ハラルト・ランゲ Harald Lange 中尉



最後の艦長、ハラルト・ランゲ中尉のエンブレムは帆立の貝殻です。
これはシェル石油のマークとは何の関係もありません。
(と現地の説明にわざわざ書いてある)



1941年8月26日〜
アクセル=オーラフ・ロエヴェAxel-Olaf Loewe大尉


それでは初代艦長のロエヴェ大尉のエンブレムとまいりましょう。



手に斧を持った「ランパント・ライオン」の徽章。

「ロエヴェ」という名前からピンときた方もおられるかもしれませんが、
艦長の姓がライオンを意味していることからデザインされたようです。



Rampant とは、特にライオンが後足で立っている様子そのものの意で、
紋章にあしらわれるライオンは例外なくこのランパントです。

ライオンが斧を持っているのは、ロエヴェ大尉が卒業した
海軍兵学校の1928年クラスのシンボルが斧だから、という理由でした。

この凝った意匠は、艦長本人を大いに喜ばせたでしょう。

ロエヴェ艦長は父親も叔父も海軍軍人という海軍一家の出で、
巡洋艦を渡り歩き、海軍兵学校の教官も務めていました。

部下から人気もあり戦績も挙げ評価された艦長でしたが、
病気でボートを降り、あとは海軍中枢で活躍しました。

【自殺したUボート艦長】

1942年9月6日〜
ペーター・ツェッヒ Peter Zschech中尉



ライオンなしの斧だけ。
二代目艦長のペーター・ツェッヒ中尉のシンボルです。




ところで、検索していたら、ミリタリーグッズを売買するネットストアで
かつてこのようなものが売られたことがあるのがわかりました。

手作りの小さなバッジのようなもので、同じものが二つあり、
二つセットで売られていたものですが、ソルドアウトしていました。

商品に添えられた説明文ですが、

「U-505は何種類かの司令塔エンブレムを使いましたが、
帽子に着用するバッジとして採用されたのは
斧とオリンピックの五輪の輪だけでした。

斧をシンボルとするペーター・ツェッヒ中尉が着任した時
すでにコニングタワーには斧が描かれていましたが、
前任のロエヴェ大尉のシンボルはライオンだったので、
なぜこのような斧があったのかは謎です

いやいやいやいや。

通販サイト管理人は知らなかったようですが、
ここまでお読みになった皆様はもうおわかりですね。

ロエヴェ大尉のシンボルのライオンが斧を持っていたことを。

このバッジは、ロエヴェ艦長時代にUボートを攻撃したのち
撃墜された敵の飛行機の外壁から作られたもので、
U-505の乗員全員が帽子につけていたものだそうです。



サイト説明に「オリンピックの輪」という言葉がありましたが、
これにもこだわりがあります。

ツェッヒ中尉が士官学校を卒業したのが1936年。

この年はオリンピックイヤーで、ナチスとヒトラーが、
思いっきり全力で我が党の国威発揚大会に利用したところの
あのベルリンオリンピックが行われた年だったことから、
ツェッヒ中尉のもう一つのシンボルが五輪になったようです。

で、この頃のU-505の司令塔正面には五輪が描かれていたらしいのですが、
現在、それを証明する写真はどこにも残っていません。


現存するU-505の出撃写真。
左は第2U戦隊のマークとランゲ艦長のエンブレム、
右はツェッへ艦長の斧のエンブレムが確認できます。
司令塔の横にいる黒い制服の人影が艦長でしょうか。

ところで、このペーター・ツェッヒ中尉ですが、
当時のUボート艦長でめずらしく個人のウィキページを持っていたため、
どれどれ、と覗いてみたら(英語のみ)、

Uボート艦内で自殺した艦長として有名

であったことがわかりました。
そのこのうえもなく不名誉なタイトルとは、

「海軍艦艇の現役指揮官として初めて自殺」

「哨戒中の潜水艦内で自殺した初めての潜水艦乗員」

「水中で自殺した唯一の海軍軍人」

と、まあ・・・壮絶です。

どうしてこんなことになってしまったのか。
本論からは寄り道になってしまいますが、ご紹介しておきます。


ペーター・ツェッヒ
(Peter Zschech、1918- 1943、享年25)


は、ドイツの潜水艦U-505の2代目司令官でした。

父親は海軍の軍医で、駆逐艦出身です。

U-505の最初の指揮官はKapitänleutnant Axel Löeweロエヴェ艦長で
彼は艦長として非常に評価され成功していましたが、
1942年10月に前述のように、病気のため解任されました。

ロエヴェの後任には、U-124の監視士官を1年間務めた
Uボート将校、ペーター・ツェッヒ中尉が就任することになりました。

この時点でツェッヒ中尉はまだ20代前半だったりするのですが、
戦時中なので十分ベテラン扱いだったのかもしれません。

ツェッヘは部下から「お硬い」指揮官と評されるタイプでした。
最初の指揮では、大変野心的といえば聞こえはいいですが、
悪く言えば結果を逸る傾向にあったという噂も残されています。

しかも部下の士気には無頓着で、常に不機嫌で取っ付きにくく、
ボートの修理中乗員に陸戦訓練を強いるなど、
不可解な命令を下して、すっかり乗組員から嫌われていました。



たとえばこんな話もあります。

4回目の哨戒に出撃する時、乗員は、潜水艦隊のジンクスに従って、
激励の花輪を出港してすぐに片付け始めたのですが、
下士官がこれは縁起を担いでいるので、という説明をしたにもかかわらず、
ツェッヒ艦長はなぜかこれに激怒して、花輪を元に戻させました。

乗員のほとんどは、このことに不満をもち、
あの花輪のせいで不運に見舞われる、と口々に囁き合いました。

そしてその嫌な予感は的中します。

1942年11月11日、それはツェッヒ艦長のもとで
U-505が最初の戦時哨戒に出撃してから1ヶ月めのことでした。

U-505はカリブ海で航空攻撃を受けて大破してしまうのです。

ロッキード・ハドソンから前甲板に投下された250ポンドの爆弾の直撃は、
甲板砲を艦体から引きちぎり、艦体を大きく損壊させました。



そして後から思えば、おそらくはこのとき、艦長が下した自らの命令が、
その後の彼を破滅に導いたのかもしれません。

というのは、このときツェッヒ中尉は総員退艦を命じましたが、
部下の士官たちは真っ向から逆らい、これを事実上無視したのです。

安易にボートを捨てる選択をする前に、可能性のある限り
救う努力をすべきではないかと艦長以外全員が考えたため、
事実上、命令への叛逆は、幹部たちが艦長を無視する形で実行されました。

そして、ほぼ全員が火傷や負傷を負っていたにもかかわらず、
魚雷間の誘爆の危険を乗り越え、2週間にわたる必死の努力を続けた結果、
なんとかボートを沈めることなく維持することに成功してしまいました。

U-505は、12月12日にフランスのロリアンUボート基地に帰着し、
戦時中に最も大きな被害を受けたUボートとして、
帰港に成功するという複雑な栄誉を手に入れることになったわけです。

しかし、総員退艦を命じて無視された艦長にとっては大きな恥辱であり、
命令が結果として「間違い」だったことが証明された結果、
艦長の心情と部下との間にできた亀裂の深刻さはいかばかりであったか。

しかも、ツェッヒ中尉にとっての不運は、ここで終わりませんでした。

U-505の修理には6ヶ月を要しましたが、
ようやく出撃したとたん、度重なる機械の故障により、
わずか数日で修理のために引き返さなければならない事態に・・・

しかも、これが6回連続で起こりました。

何かの祟り?お祓い推奨?というわけではなく、
ここがナチス統治下のフランスだったことが具体的に祟っていたのです。

つまりレジスタンスのフランス人造船所労働者による妨害工作のせいでした。

しかしながら、6回も出撃しては戻ってくるということがあると、
その理由がどうあれ、その責任は艦長に押し付けられがちで、さらに
口さがない連中のジョークのネタにされてしまうのが世の常ってもんです。

あるUボートがその撃沈数で目覚ましい総トン数を記録し、
戦いの末無念にも総員と共に海に沈むUボートもあったその当時において、
U-505はほぼ1年間ビスケー湾を出ることさえできなかったのですから。

そして代表的なそのジョークとは、

「他のUボートが総員撃沈されている中 必ず帰ってくる艦長
その名はツェッヒ


という心ないものでした。


【運命の哨戒】

1943年10月10日。

U-505は6回の失敗の後、ようやく哨戒に成功し出発することができました。
これはU−505にとって10回目の哨戒となります。

出港して14日後、アゾレス諸島沖で浮上中の連合国駆逐艦2隻の注意を引き、
U-505は深度爆雷の集中攻撃を受けることになりました。

少なくてもこんなことは、Uボートの乗組員にとって
想定内の範囲であり、これを無事に切り抜けるかどうかは
全員で立ち向かうべき戦時の「ルーチン」というべきものでした。

しかし、潜水艦の天井を眺めながら降り注ぐ爆雷に耐えている間に、
ツェッヒは精神を崩壊させてしまいました。

艦長として哨戒に出て初めて深度爆雷の洗礼を受ける以前に
度重なるアクシデントと采配ミスで部下の信頼を失っていたということが、
おそらく彼の心の中の何かを「誤作動」させてしまったのでしょう。

深度爆雷の嵐が続く中、ツェッヒ艦長は部下の目前で、
無言のままワルサーPPKピストルで自分の頭を撃ち、
司令塔の床に崩れ落ちました。

瞬間の出来事でした。

副長のパウル・マイヤー(Oberleutnant zur See Paul Meyer)中尉
次の瞬間から、速やかに艦長代行として指揮を執り始め、
Uボートの「標準的な手順」で残りの攻撃を乗り切り、
結果、軽い損傷でボートを港に戻すことに成功しました。

しかし、驚いたことに、マイヤー中尉の軍規の迅速な回復は、
上から称賛されるでもなく、海軍はU-505に起きたトラブルを、

「全般的に指揮官クラスに規律が欠如しているという証拠」

とみなした上で、マイヤー中尉に叙勲どころか、

「マイヤー中尉の全ての責を免じる」

などという斜め上な処分を言い渡したのみ。

これが幹部とU-505の乗組員全員に残っていた士気を
さらに著しく低下させることになります。

このあとのU-505の処分については、上層部が乗員の解散と分散を推奨し、
肝心の乗員本人たちもそれを希望していたにもかかわらず、
カール・デーニッツ総司令官は、それを押しとどめました。

理由は、この話が他のUボートに広まった場合、
それが艦隊全体に与える悪影響を懸念したからです。

そのため、メンバーはそっくりそのまま次の艦長に受け継がれました。


【事件の及ぼした影響】

海軍で一般的にいわれていることでしたが、ひどい事件や出来事は、
一つの艦にとどまらず、艦隊全体の士気をだだ下がりさせてしまいます。

少なくとも、U-505については戦後次のように解釈されました。

のちにU-505がカナリア諸島の南西でアメリカ軍に攻撃されたとき、
標準的な手順を踏んで艦を適切に沈没させることができず、
海面でそのまま捕らえられた唯一のUボートになったことの根底には、
これらの出来事の複合的な影響による、U-505乗組員全員の
ぬぐいがたい戦意の喪失と士気の低下があったからだ、と。

さらにそれは以下の結果をも生んだという説があります。

”タスクフォースの航空部隊から攻撃された時、
U-505の乗組員はほとんど一度にパニックに陥った。

しかも、新しい艦長はすぐさま浮上し、航行不能になる前に、
あるいは大きな損傷を受ける前にボートを放棄した。

このことは、乗員たちに
前艦長の最初の哨戒における、
あまりにも諦めの早い総員退艦命令を彷彿とさせた
に違いなく、
前回のトラウマから、艦に留まって戦う意志を一切削がれたからだ。”


事実U-505は、連合国によって、無傷のエニグマ機、
その月の海軍の暗号帳、その他様々な秘密文書とともに捕獲されました。

おそらくもっともまずかったのは、この時連合国の手に
U-505に搭載されていたG7esホーミング魚雷が渡ってしまったことです。

これによって連合国はフォクサー・デコイシステム
改良する技術を奪うことができました。

これらの失態は、全てUボートを適切に自沈させなかった乗員のせいであり、
その原因は、ツェッヒ事件の影響にある、というのが
その一連の出来事についての一部の歴史家たちの解釈です。


【否定される士気低下説】

しかし、U-505の元乗組員、ハンス・ゲーベラーが、 彼の回顧録、

『Steel Boat, Iron Hearts: A U-boat Crewman's Life Aboard U-505』
(鉄のボート、鉄の心:あるUボート乗員のU-505での体験)

で語ったところによると、全く別の側面が見えてきます。

つまり、ツェッヒ艦長の自殺は、乗員の士気を削ぐどころか、
むしろその後それが団結と士気を高めた、というのです。

なぜなら、ツェッヒ艦長は最初から乗組員に対していつも不機嫌で
はっきりいって好かれるどころか嫌悪されていたので、
死んでむしろ、乗員の心はひとつになったというのが彼の説です。

これは、当の乗員本人がいっていることなので、
(というか嘘をついても仕方のないことなので)おそらく本当でしょう。

少なくともゲーベラーにとっては、という注釈付きですが。


あのとき、Uボート乗員が攻撃を受けてオロオロとパニックに陥り、
艦長が簡単に船を諦めて総員退艦を命じた、というのは間違いで、
彼によると、実際は深度爆雷の攻撃で後部区画が浸水し、
舵が詰まって補助舵が効かなくなったことが決定的な退艦理由であり、
乗員たちはパニックどころか、攻撃を受けている間、
熟練したプロフェッショナルな対応をしていたというのです。

要はギャラリー大佐率いる米軍タスクフォースが、最初から
Uボートの完全な形での捕獲を計画していたということもあって、
練りに練った精密で巧緻な作戦を繰り広げたため、
たまたまターゲットにされたUボートは
それになすすべもなかった、というところだったかもしれません。


結局、ツェッヒ艦長の就任期間は9月6日から10月24日までとなり、
それから二週間、副長のパウル・マイヤー中尉が指揮を執り、
帰港して11月8日からあらためてランゲ中尉が艦長に就任しました。


わたし個人も、前艦長の自殺が捕獲される失態につながったというより、
アメリカ軍の用意周到で大胆な作戦が功を奏した、とする説を推します。



続く。







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4 Comments

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Uボート艦長 (お節介船屋)
2023-05-11 14:07:25
参照本に3人の艦長が紹介されています。スカパフロー潜入し、英戦艦撃沈のギュンター・プリーン
貧しい家庭に育ち、働きながら資金を溜め、15歳で船員養成の航海学校に入り、船会社に就職、不況で解雇されました。
24歳で海軍入隊、商船航海士の経験がありましたが下士官としてしか入隊できませんでした。
抜群の能力を認められ、31歳で大尉でU47艦長に任命されました。
1939年10月のスカパフローでの英戦艦「ロイヤル・オーク」撃沈、「リパルス」損傷後脱出、帰投。その後通商破壊作戦従事、28隻16万トン余りを撃沈、1941年3月ウルフパックで船団攻撃中英駆逐艦との攻防5時間撃沈、戦死しました。
抜群の技術と度胸を持っていましたが休暇より船団攻撃するほうが楽しいと語っており、訓練や規律も厳しく、かたくなな性格で部下将校としっくりいかなかったと言われています。
商船乗り組みから下士官を経て将校となった経歴は海軍兵学校出身のエリート将校との比較で後塵をはいすることは各海軍ではよくあることであり、プリーンも心情からそうなったのかもしれません。

最も成功した人物オットー・クレッチマー
優れた判断力と反射神経と胆力を持ち、運に恵まれた艦長
船団攻撃の有効な攻撃法を理論的に決め提唱していました。夜間浮上したまま護衛戦隊の防御戦の内側に入ることを主張したのもクレッチマーでした。
駆逐艦や商船44隻26万トン余りを撃沈、1941年3月船団攻撃中、英駆逐艦の爆雷攻撃で損傷、浮上、乗員40名とともに捕虜となりました。
国民への動揺を考慮されしばらく発表されませんでした。
捕虜生活においてもドイツへの情報通知や、セントローレンス川にUボート呼び寄せ、脱走等も実施しました。
発見逮捕され終戦後、送還され新生ドイツ海軍へ復帰しました。

海軍家庭生まれのヨアヒム・シュプケ
U3,U19、U100艦長歴任、計39隻16万トン商船撃沈
大胆不敵で行動は神出鬼没、疫病神と恐れられていました。
出撃中でも快活でリラックスしていたと言われています。
1941年3月ウルフパックで船団攻撃中
レーダー装備英駆逐艦に体当たりされ撃沈、戦死しましたが戦没するまでシュプケはブリッジに留まっていたことが分かっていますが救助されず、艦と運命を共にしました。

以上3人の艦長を紹介しましたが性格は色々のようですが若く、元気で優れた判断力を有していたことが分かります。

800隻以上のUボート艦長はいろいろな性格でその能力もいろいろだったと思いますが、1943年半ば以降連合国側の対潜能力向上で犠牲が急増し、艦長個人の名を高からしめることは出来ませんでした。
U505の艦長もしかり。

参照海人社「世界の艦船」No471
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ワルサーPPK (ウェップス)
2023-05-11 11:31:55
前任の指揮官が残念な人だった場合、後任者は歓迎されるので(少なくとも前よりはマシと思われる点で)有利というのはあるでしょう。その場合は凡人でも相対的に有能な指揮官と見なされることは想像できます。あくまで一般論ですが(;^ω^)
したがって、私もむしろ士気が上がったというハンスさんの説に賛成ですね。

自殺に使われたワルサーPPKはコンパクトな制式けん銃で、ジェームズボンドの愛用で有名です。ヒトラーもこれで自殺しています。「Uボート」で艦長が持ち出したワルサーP38は艦内で使用するにはややごツイ印象ですので、PPKの方が自然だと思われます。演出もあるのかも知れませんが( `ー´)ノ
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乗員の居住 (お節介船屋)
2023-05-11 10:34:28
U505のⅨC型の居住関係の記述がありませんが参照本にⅦB型とⅩⅪ型のメカニズムを寺田明氏が詳しく記述されています。
ⅨC型はUボートでは航続力延長ため燃料タンクを拡大してⅦB型の1.5倍1,200tとなっていますが居住性はさほど向上はしていないと推定されます。
士官以外はベットを2名で共用していますが各自のロッカーは寝台の近くに設置され、テーブルは常に使用出来て休養に役立っていたそうです。

今後艦内の詳しい説明があるでしょうですのでコメントは控えますがインド洋での通商破壊作戦に従事して日本海軍の基地ペナンに入港したUボート乗員が停泊するや海に飛び込んで水泳を楽しむさまを見て日本潜水艦の乗員はその元気さに驚いたそうです。

その元気さは食事にあったようでパンとバターを各居住区の天井から籠に入れて吊り下げ、いつも好きな時食べられたそうです。

末期には多くの戦没で乗員確保が困難となっていきますが、ドイツ人のタフさもあり、居住性も多少改善され終戦まで戦い抜きました。

水中高速のⅩⅪ型の1番艦U2511が最初の出撃が終戦直前の4月30日であり、5月4日攻撃禁止命令受信後、駆逐艦数隻を伴った英巡洋艦と遭遇し、潜航のまま陣形内に入り、500mまで巡洋艦に接近、襲撃シュミレーションを実施しましたが全く探知されない性能であったとの事です。

イギリスもこの性能には驚いており、この型がもっと早く、多く就役していれば再度脅威となっていたかもしれません。

>甲板砲を艦体から引きちぎり、艦体を大きく損壊させました。
損傷写真からは被害甲板は後部のように見えますが大砲はセイルの前部に装備されていましたのでセイルの恰好からちょっと矛盾を感じます。
それにしてもこの損傷でバラストタンク等も損傷しているのではないかと思われますので潜航も出来なかったのではと思い航空機の脅威のなかロリアンまでよく帰投できたと感嘆します。
艦長にあらがっての乗員のタフさには驚きます。

捕獲された時は大砲は撤去され、セイル後方を拡大し、機銃が増備されています。
1944年にはセイル右舷にヒンジで起倒式シュノーケルが装備されましたがその前の捕獲であり当然U505は装備されていません。

参照海人社「世界の艦船」No471
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大バカ者 (Unknown)
2023-05-11 10:24:35
Uボートの実運用。特に指揮官のことは全く知りませんでしたが、たかだか25歳では、乗員をまとめることは不可能です。そんなことが可能だと思っていたとしたら、上層部自体が大バカ者です。

自分が25歳の時のことを考えて見れば容易にわかります。乗員にバカにされるような若い艦長だから、乗員は好き勝手な被服だったり、マークを船に描いたり出来たのでしょう。

日本海軍で「好き勝手に」船にマークを描いたのは、天一号作戦(沖縄特攻)の時の菊水くらいだと思います。旗艦「大和」以下、複数の船(全艦ではない)が描いています。

艦長の自殺は、本人の資質もあるでしょうが、そんな経験不足の艦長を補職したドイツ海軍自体が間違っていたと思います。敵がどんな態勢で船を動かしているか、米軍は情報を持っていたはずです。こんな連中なら、揺さぶれば、船を分捕れると思ったことでしょう。
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