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その方々にとってあなたは道を正す役割を担っている、と夢が語った。
あなたの幸せが彼らの幸せでもあり、
あなたにとっても彼らの幸せがあなたの幸せだと本心から思っている。
だからです、と夢は私に語りかけた。
私は交通事故に遭ったことによって、内省を余儀なくされてきた。
つまり、体が動けなく、不具合を抱えたことによって、
人生を振り返り、過去の選択においてなぜそのようにしたのかを探求し、
それがどのように今に作用し、明日への道へ降り積もるのかを
見つめざるを得なかった。
それは同時に心や魂を試されていることでもあり、
そして、生涯現役を貫ける私の役割についてそれが何か・・・・・
疾患を治すことよりもまず先に、
そのことが片時も私から離れる予断など許されてはこなかったように
今は振り返る。
それこそが孤独であると理解した。
天井との語らい、本やさまざまな言葉との出会いを通し、
それらと向き合う作業を、痛みの中で行ってきた。
そして、それらとの闘いではなく共存の道を模索する機会を
与えられたと思う出来事の連続によって快方を手に入れた。
人生とは一言で片付けられるほど、それは単純なものではなく、
特に男性にとってのそれは、私は女が考える以上に複雑であり、
辛く苦しい道のりではないか、とこの歳になり感受できるように変化した。
多くの、長年の男友達は今や経営者となり、
家族や恋人には明かせない孤独を抱えている。
私はその孤独を受け止める役割があることはすでに若い時分に
その方面に意識が向くような状態を経験してきているため、
私自身が孤独において、孤独を感じない、
あるいはそれを楽しめるようなエクササイズが毎日という重なりに融解し、
受身の姿勢を貫ける鍛錬が実を結び始めていることを感じている。
私は「私という主張」をすることにより
私が「私」から遠ざける事実にようやく気付いた。
それはどのようなことかというと「受身である姿勢」を貫くことが
すべてを円滑に、とどこおりなく、すらすらと流れ、
新たな展開が派生することを身をもって知覚し、
それにおける自分の反応や心が動かす様を洞察することによって、
ステージの底上げを、上昇を実現できるのだと夢は語る。
自然体でいる振りをしている人は多いが、
それはやがて剥がれてしまう類の自然でしかない、と。
「魂の癒し手」というフレーズによって、
真夜中にこうして私はたたき起こされた。
それを私がどのように解釈し、どのように調理するかは、
私や周囲への人生として、影響するのだとその夢は教える。
今回のタイへの渡航はその自答を手に入れ、
これまでにない満足感や幸せを持ち帰り、
それを今後に役立てるための時間になる予感が胸を躍らせる。
盟友との育みこそ、その存在を知り、力を、仲間である仕組みを
思い出させてくれる、または忘れていたあたたかさなのかもしれない。
自然への従順な姿勢は、人生の潤滑油となり、
歩む死への行進を軽やかなものに仕上げるだろう予感を
私は信じてやまない。
それは時間という洞察が誘い招いてくれた「道」の
はじまりに今は過ぎないかもしれないが・・・・・・
※写真は作者不明ですが私の作品でないことをここに追記します。