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推測の医療

2008年04月17日 13時05分58秒 | 医療






推測という言葉はここでは使えないはずだ。
なのに、それが当然のように文字として記されている。
私は「今の私」から推測して、遡って、病状うんぬんと診断書を書いて欲しいなど
依頼した記憶はないからだ。
事実、私は検査によって発作をくり返すようになり、
その発作によって、救急搬送や外来にもお世話になる結果を招いた。
歩けなくなって、車椅子に乗って、診察を受けたとき、
担当医は部位すら診ようとはしなかった。
あの日、私が苦しいと言っても目すら合わせなかった。
診療情報が乏しい中での応対などとはまっかな嘘で、
私は主治医に今の状況を伝えますか?との看護師からの質問には
いつだってYESと答えてきた。
しかも、担当した医師たちは電話連絡にて、主治医の指示を仰いでいたし、
そのように説明を受けていた。
だから、円滑な診療提供ができなかったのではなくて、
はじめからしようとはしなかった、これが事実なのだ。

私が診療に納得をしていないと誤解されているのだと痛感した。
納得をしていないのではなくて、疑問が払拭できないだけのことだ。
なにも求めてはいない。
またなにも期待していない。
でもどうしてなのだろう?
医療とはどうしてこんなにも悲しいものなのだろうか。

某大学病院での一連の出来事、私の体調悪化を診断書として作成する場合は
不具合の一因である医師の診察を再度受け、
診断書作成の依頼を直に申し入れ、
足労するのが条件だと書かれている。
それは当然だろう。
でも、もう一方ではそこまで患者に負担を強いることがなぜ平然とできるのか、
つまり、心身においても金銭的な面でも、
はじめから誠意のある対応をしていれば、
無駄な時間も金銭も浪費する必要もなければ、
無駄に傷を受ける者を出すこともなかったと思う。

はじめからある疾患についてのみ検査・診断を希望していたのではなく、
全体としての不具合の現状を知りたかっただけなのに、
それすらできないのが今の日本の医療なのだろうか?
それが医療の限界なのだろうか?

医師にも意見はあるだろう、反論も抗議も。
でもそれができるのは、すべての医師だとは私は思っていない。
それができる医師は、患者を部位として診ず、人間全体として取り扱い、
患者に寄り添う覚悟のある医師だけだ。
それが私の推測で、私が認めざるを得ない敗北なのだろう。

 




 


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