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治療を行う病院への受診を繰り返してきたある患者たちから連絡が入った。
その方々も自分が「低髄液圧症候群(脳脊髄液減少症)」であると、
長年に渡り信じていた。
私との症状の比較質問がときどき電子メールで届く。
そうした症状は私とは相違します、と返信した記憶しか私には実はない。
けれど「多様な症状が低髄圧液症候群の特徴である」ことを理由に、
医者のように自分の病名を判断し、
その診断ができない医師や治療を行わない病院や
保険診療を行わない厚生労働省を「悪」とする発言に終始していた。
治るのであれば誰かを批判する意義があるかもしれない。
けれど、そうでない場合、私には興味のないことだとして、
連絡の一切を拒否してきた経緯が
ここでは語り尽くせない理由があるためだとご理解いただきたい。
久しぶりに届いたメールには別の病名が記されていた。
今まであれだけ騒ぎ、医者や病院や厚生労働省を悪としてきたことなど
何もなかったかのように、
そして、私の忠告に耳を傾けることなく、
私にまで非難の矛先を向けてきたのに、だ。
一度、振り出しに戻ること、誤診を疑ってみること、
学閥の違う医師に助言を求めること、
3名以上の医師の意見を参考にするなど真剣に伝えてきたつもりであったが、
その時間の多くは意味を成さない性質を持った人であったため、
最終的には連絡をしないで欲しい、と伝えるのが精一杯だった。
私は医療を必要とする身になったとき、
疑うことを放棄した場合の恐怖、依存の先にあるものを
少なくとも垣間見てきたつもりでいる。
なぜ快方できる人とそうではない人がいるのか、
その差はなにが問題となり得るのか、
いつかその詳細を書く機会に恵まれるだろう日の訪れを信じている。
本当の病名が判明したとき、
それまでの医療は医療として成立するのであろうか。
逆にそこが今後は批判の的となりさらし者にされるのか。
私は私の道によって、気長に快方を見込める道を選んだ。
それは、生への希求ではなく、ただ複雑な取り巻きに
巻き込まれたくないだけだ。