豊国神社
豊臣秀吉の死去の翌年の1599年(慶長4年)、
遺体が遺命により東山大仏(方広寺)の東方の阿弥陀ヶ峰山頂に埋葬され(遺体埋葬は死の直後という説もある)
、その麓に廟所が建立されたのに始まる。廟所は秀吉の死後間もなく着工されたが、
着工時はまだ秀吉の死は伏せられていたため「大仏の鎮守社」と称していた。秀吉は奈良東大寺大仏殿を鎮護する手向山八幡宮に倣い、
自身を新八幡として京都東山方広寺の鎮護として祀るように遺言したといわれる。
しかし、豊臣秀頼に継がれた豊臣政権は政争の末、大老の徳川家康が主導することとなり、
後陽成天皇から正一位の神階と豊国大明神(ほうこくだいみょうじん)の神号が贈られ鎮座祭が盛大に行われた。
神号の下賜のおりには豊国大明神は兵威を異域に振るう武の神と説明されている。
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耳塚
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