麟閣へ
寄付
中門
腰掛待合
蹲
そしていよいよ
麟閣
天正19年(1591)千利休が秀吉の命で切腹すると、その子・少庵は利休の高弟のひとり蒲生氏郷の所領会津へ匿われ、文禄3年(1594)秀吉より赦免され京へ帰還した。麟閣はその間に少庵が氏郷に請われて建てたと伝わる
麟閣と蒲鶴亭(鎖の間)の平面図
麟閣は三畳台目に相伴席が付く燕庵形式の茶室。異なる点として本家の燕庵より点前座が50cmほど前に出ている事。その為、燕庵は床から茶道口まで一直線になっているのに対し麟閣はその間に段が出来ている。
躙口
刀掛
燕庵のモノは躙口壁面に付く。
少庵が削ったとされる赤松の床柱
明治5年城内より森川家に移築されるが、傷みが激しかった為、この床柱以外は新しい部材と取替えられたそう。
天井の棹縁は床方向に向いている「床指し」。燕庵は並行になっているので、ここは異なる点。
点前座のみ腰張は反古紙となっている
蒲鶴亭(鎖の間)
内部は六畳
最期はほっこり
麟閣は千少庵の好みとされていますが、形式は古田織部好みと摩訶不思議な茶室。
会津若松城は次々と城主が代わり、何度か城の改修が行われているそう。
少庵が茶室を造ったとして、その後の時代も存在したか否かは謎ですねぇ
最近の「探訪」カテゴリーもっと見る
最近の記事
カテゴリー
バックナンバー
人気記事