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2310 富山市郷土博物館 蜷川新右衛門さん

今回も富山

富山市郷土博物館

特別展「蜷川新右衛門さん 室町幕府政所代蜷川家の盛衰」
期間:9月30日(土)~11月12日(日)

寛政重修諸家譜
寛政11年(1799)から文化9年(1812)にかけて江戸幕府が編纂した大名・旗本諸家の家譜集成。
本資料によれば蜷川親行が足利尊氏に仕えたのは、近臣の伊勢貞継の取り成しがあった為だが、これには親行の妹が伊勢貞親に嫁いだ関係からと思われる。
こうして蜷川家は伊勢家を介して室町幕府に参勤する立場となったようだ。
一休蜷川狂歌問答
一休と蜷川新右衛門が詠みかわす狂歌などを通して、人生の教訓を著した狂歌咄集。
蜷川新右衛門こと蜷川親当は江戸時代の「一休物」において一休と歌の贈答を交わす相手役として存在感を示している。これは実際に一休と蜷川親当の間に親交があったことにもよるが、蜷川親当が智蘊を称して宗祇の連歌七賢に数えられる程の文化人であった事にもよる。
現代では、アニメ「一休さん」にも少年一休さんと青年新右衛門さんとして登場する2人だが、実際に2人の交流があったのは親当が出家し智蘊を名乗った晩年のことだった。
新右衛門さんは三代将軍・足利義満に仕え寺社奉行の職についていたが、実際は六代将軍・足利義教に仕える政所執事伊勢家の代官「政所代」であった。
土佐物語
宝永5年(1708年)長宗我部元親に仕えた吉田政重の孫・孝世が著した長宗我部家の興亡を描いた軍記物。
これによれば蜷川親長入道道標は連歌の達人であったので、長宗我部元親が土佐に招き連歌宗匠にした。
或る時、元親は天龍寺の策彦周良から法号を授かる事を望んだ。道標は在京時には同寺に出入りしていた事から取次役を買って出て、無事に元親に「雪渓」号が与えられた。
当時室町幕府の衰退に伴い蜷川家も独自の動きを見せていた。蜷川親長の父・親俊は出羽国の伊達家や最上家のもとに下向しており、親長とは異なる道を歩んだようだ。
また蜷川親長が長宗我部元親に仕えたのも故実や連歌に精通していた事もあるが、元親夫人の母が蜷川親長の祖父・親順の娘であった事も重要なことと考えられる。
親長は長宗我部盛親が改易された後に、徳川幕府に仕えている。
蜷川家伝来 陣羽織
表に龍、背には家紋の「合子箸」が大きくあしらわれた陣羽織。幕末の品らしく西洋の軍服に倣い、両肩には肩章を模した飾りが付けられている。
幕末の蜷川家当主・親賢が慶応二年(1866)の第二次長州征伐に出陣した際に着用したと伝わる。

蜷川新右衛門さんの名はアニメ「一休さん」で有名でしたが、実在する人物であり、また連歌師・智蘊として連歌七賢に連なる。また和歌を清巌正徹に師事していた事は知っていましたが、蜷川家歴代の業績となると”?”でしたが、今回の特別展ではかなりカバーできていたのではないでしょうか。
その代わり蜷川親当(智蘊)の連歌師としての業績に関する資料が無かったのは個人的には残念でした。
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