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藤田美術館
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春季展「茶道具いろは」
期間:3月9日(土)~6月16日(日)
「数百年にわたって大切に伝えられてきた造形的な美しさを持つ茶碗や茶入、茶杓などの「茶道具」は初めて使われた当時、斬新なアートとして茶会に登場しました。作者や歴代の所有者、エピソードによっても評価されてきた茶道具の見方や愉しみ方をご紹介いたします。」(公式より)
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黒楽茶碗 銘 まこも 長次郎作
同じ長次郎作のあやめと兄弟茶碗とされている。銘もあやめよりも侘びている事から付けられた。千宗旦所持。
二重切竹花入 銘 よなが 千利休作
1590年秀吉の小田原征伐に従った利休が陣中で竹の花入を幾つか作った。この「よなが」もそのひとつで銘は竹の節(よ)と節の間が長くあいている為とされます。
一般に竹製の花入はこの小田原陣中で作ったものが最初とされていますが、それ以前に作られたとされる竹花入もあるそうです。しかしそれらは花を運ぶ為に用いられた送(贈)筒だった様で、それを利休が茶会で使ったのが竹花入の始まりだとの事。
田村文琳茶入
名物。田村左京大夫が所持したことから「田村文琳」と呼ばれる。後に竹中半兵衛重治の嫡男・丹後守重門が所持した。
1899年この茶入を入手した藤田伝三郎でしたが、この茶入にふさわしい道具がもうひとつ足りないとしてこの茶入を終生使用しなかったそうです。
本手利休斗々屋茶碗
大名物。枇杷色が美しい茶碗。利休・織部・遠州と時代を代表する茶人が所持した。
さてこの茶碗には織部が所持していた時の逸話があります。秀吉の朝鮮出兵時に軍備を整える資金がなかった織部はやむなくこの茶碗を質に入れて軍備を整えました。この事を知った弟子の遠州は質屋からこの茶碗を買戻し織部が戻って来たときに茶会を開いてこの茶碗で持て成しました。これに感激した織部は質に入れる際惜しんで手元に置いていた茶碗の仕覆を遠州に与えたそうです。
今回の展示ではその仕覆も展示してありました。ライトブルーが美しい仕覆に織部と遠州の師弟愛が見えるようです。
古銅角木花入
大名物。首の長い砂張製の花入。北向道陳の鑑定により三好長慶、弟の三好実休が所持した。
「山上宗二記」には「人の知らざる数寄道具也」と紹介されている。
天猫姥口釜
釜の口が歯の無い老婆の口に似ている事から姥口釜と呼ばれてる。織田信長・柴田勝家所持。
この釜と同時に利休宛の武野紹鴎書状が展示されていました。内容は信長が愛用していた天猫姥口釜を勝家に与えるに際し、惜しんだ信長が「馴れ馴れて飽かぬ馴染みの姥口を人に吸はせんこと惜しぞ思ふ」なる狂歌を作った事を報せている。しかし紹鴎と信長の活躍年代を考えると疑問が残り、手紙を書いた大黒なる人物は別人かもしれません。
共筒茶杓 羽淵宗印作
白竹で全体が薄く作られている。節が無く長めの真の茶杓。
羽淵宗印は紹鴎の茶杓削り師で、珠光の茶杓削り師であった珠徳に学んだとされます。
茶杓 千利休作
ぐっと持ち上がった櫂先と蟻腰の典型的な利休茶杓。利休から織部に贈られた。
筒は織部作で「金法ヨリ参候 休作」と書かれています。
この他にも織部所持の茶碗「老僧」もあり利休と織部に関する道具が多かった印象。