ブラスカル

元マラソンランナーですが、今や加齢と故障でお散歩専門、ブラタモリっぽく街歩きをしています。

桜の季節に尊厳死を思う

2013-03-20 14:11:33 | 政治経済
桜の季節になると、自分は、桜のきれいなところを求めて、文字通り走り回ります。
その時いつも思うこと、それは「自分はいつまで、こうして走って桜を見られるのかな」ということ。

急に重い話になりますが、、、
私の祖父は、7年前に102歳で亡くなりました。最後の6年間は、要介護5の認知症で施設に入っていました。
町会長を何期も務めた、私の自慢の祖父でした。
私は初孫で、ずいぶんと可愛がってもらい、よく二人で飲みに行ったりもしてました。
その祖父が、私も、一人息子である私の父も誰だかわからない状態で、おむつをして車いすに乗っている、認知症と言い換えるよりも、老人性痴呆という言葉がぴったりの状態でした。
施設に祖父を訪問するたびに自分が思ったこと、それは「自分はこうなってまで生きていたくない」ということでした。
プライドの高かった祖父のこと、本人もきっとそう思うはず、そんな話をしたら、院長先生に、「そんなことはない。今、おじいさんは幸せなんですよ」と言われてしまいました。
本当にそうなんだろうか。。。

一般的に、尊厳死とは「不治かつ末期」の延命治療を患者の意思でストップさせることですが、認知症になってしまったら、患者としての意思を示すことができない。
仮に元気なうちにそのような意思表示をしていても、さしあたって生命の危機がない、末期ではない状態では、だれも何もできない。
もしああなったら、自分は、生かされ続ける他に選択肢を持たないのだと。

尊厳死は、世界で最も早く深刻な少子高齢化社会を迎える日本が、先陣を切って考えなければいけない問題だと思います。
生存権、基本的人権というレベルで考えなければいけない話に、お金の話を絡めるのはどうかとは思うのですが、祖父の晩年の6年間には、おそらく年間500万円以上の介護コストがかかっており、その少なくない部分を公的資金が負担していました。
尊厳死は財政の問題でもあるなんて言ったら、基本的人権好きの人から、集中砲火を浴びちゃうのかな。
でも、子供や孫の世代のために使われるべき多額の金を浪費して、自分が望まない生を得ることを、どうしても納得できない自分がいます。
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