ブラスカル

元マラソンランナーですが、今や加齢と故障でお散歩専門、ブラタモリっぽく街歩きをしています。

戦争体験を語ること

2012-08-18 12:22:20 | 歴史
先日レビューを書いた「おやじの国史とむすこの日本史」の中に、「戦争体験を語り継ぐこと」という章がありました。
この本で言うおやじは昭和一ケタ生まれですから、実際に戦場には行っていない、そういう人は自らの戦争体験をよく語る。
でも、実際に戦場に行ったその上の世代は、悲惨な体験をあまり語りたがらない、あの戦争のと本当のところが見えてこないという話でした。

私の母は、終戦当時、小学校の高学年でした。
「戦争は本当に悲惨、平和が何よりも大事」ということで語るその話は、戦争体験というよりも、疎開や戦後の食糧難、被害者視点の敗戦体験というべきもので、戦争の実態というものは見えてきません。

私の父は、終戦当時、大学1年生でした。
「学徒動員される先輩たちを見送った」「本心は、戦争に行きたくなかった」私が聞いた戦争に関する話はこの2つだけ。
確かに、あのまま戦争が続いていれば、父は戦場に動員され、その結果かなりの確率で死ぬことが予想された。
10代の後半に、自分の未来、将来を夢見ることが出来なかったわけで、多くを語りたがらないその気持ち、分かるような気がします。

7年前に102歳で亡くなった私の祖父は、徴兵され、日中戦争に出征していました。
祖父からは、酒飲み話に、この戦争の話を、何度も何度も聞かされました。
実際に戦場に赴いた人の話ですので、第一級の資料です。
祖父の話を通じて、あの日中戦争がどういうものであったのか、私は私なりの理解をしています。

まず、祖父は、戦争とは言っていませんでした。「シナ事変に行った」と。
最初は北京にいたが、最後は常州まで行ったそうで、常州といえば、あの南京の目と鼻の先です。
そもそもが局地的な武力衝突だったものが、これといった戦争目的もないまま、戦線が拡大していってしまったということのようです。

むやみに戦線を拡大するな、民間人には手を出すなということになっていたそうです。
中国人の子供たちに、飴玉をあげると、すごく喜ぶんだとも言っていました。
反面、農民が手を振っているので、トラックの荷台から手を振り返したら、突然鉄砲を構えて撃ってきた、なんて話も聞きました。
国民軍と八路軍がいて、八路軍の方が強かったとも。
蒋介石の軍と、中国共産党の軍が、占領地でもゲリラ戦を展開していたということです。

戦争は当然軍隊と軍隊の戦いなのですが、農民兵、民間人と同じなりをした軍隊ということになれば、結果的に、戦いは民間人を巻き込んだものになってしまいます。

駐屯地にはたくさんの捕虜がいた。
捕虜に名前を覚えられてしまって、困った。
スパイ容疑の捕虜を移送中に体当たりされて逃がしてしまった。上官にそういう時は撃てと言われていたが、直感的に「あの人はスパイではない、民間人だ」と思ったので、引き金をひけなかった。その日は、上官に顔の形が変わるくらい殴られた。

ゲリラ戦に持ち込まれ、収拾がつかなくなっている様子が見て取れます。
ゲリラ兵と戦ったとしても、端から見れば、軍隊が民間人を殺害しているようにしか見えない。
また、誤認逮捕や誤射も当然あったでしょう。
いくら民間人に手を出すなという命令を出したところで、結果的には、人道にもとる日本軍の残虐行為ということになる。

首都・南京を陥落させても戦闘は終わらない、勝つという終わりのない戦争、そんな愚かしいことを日本はしてしまったわけです。
その結果、日本は、米国をはじめとする連合国側に経済封鎖をされ、石油を閉ざされ、行き詰って大東亜戦争に踏み切るということになります。
日中戦争の背景には今同様の政局の不安定があり、与野党のねじれ現象があり、何も決められない政治があり、ポピュリズムがありました。
これが、今、我々日本人が、一番歴史から学ばなければいけないことのように思えます。

祖父は、武勇を誇るでもなく、また悲惨さをことさらに強調するわけでもなく、淡々と、私に話をして聞かせました。
でも、「本当に大変だったのよ」という母の話よりも遥かに悲惨な、そして重要な、戦争の実体験です。
「またその話?」なんて思わずに、もっといろんな話を聞いておけばよかったなと思います。
そして、この話を語り継ぐことが、祖父の孫である自分の使命、とも思っています。

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