哲学の本って、読んでも分かったためしがなかったのですが、この本を読んで、初めて哲学というものが少し理解できたような気がしました。
子どものための哲学っていうから、哲学を、子供向けに、分かりやすく解説したものかなって思ったら、違いました。
ヴィトゲンシュタインとかシュレジンガーとか、有名な哲学者の書を学んでも、それは他人が哲学をした結果を知るだけ。
自分のが子供の頃に問題だと思っていたけど、いつの間にか考えることをやめてしまったこと、それを考えることが、自分にとっての哲学だそうです。
早速やってみることにしました。
自分が子供の頃、何を悩んでいたかというと、次の二つであったと思います。
一つ目は、夜寝たまま朝目が覚めなかったらどうしようということ。
二つ目は、楽しみに思っていたことが、なぜ終わってしまうんだろうということ。
一つ目は、死に対する恐怖ですね。
寝ることは自我を一時的に放棄する行為であるわけですが、もし放棄したまま元に戻れなかったらどうしようということ。死を単純に自我の喪失ととらえ、恐怖しているところがさすが子供、死を余計な情報を排除して根源的に考えればこういう発想になります。
子供心にこんなことを考えたのは、自分の周りで、急性心不全とかで寝たまま死んでしまった人の事例を見聞きしたとかの、今は深層心理に沈んでいる幼児体験があったのだと思います。
死の恐怖に対する、大人の考える対応措置の代表例は宗教です。
ユダヤ・キリスト・イスラム教系の一神教は、死後の世界が存在するものとし、善行を積み、神を信じれば天国に行けると教える。いかにも強者に虐げられた民族の宗教という感じです。
一方で輪廻転生という宗教観があり、こちらは、次々と生命が死に、そして生まれる、生命力あふれる南方系って感じがします。
いずれにしても、肉体はなくなっても霊魂は不滅って発想で、今これを心の底から信じている人って、一部の原理主義の方だけではないでしょうか。
私はキリスト教の幼稚園に通っていましたが、天国なんて全く信じていませんでした。
もう一つは、周囲の人が自分を忘れない限りは死んでいない、人の心の中に生き続けるってやつ。
ないしは、仕事上の成果とか、芸術作品とか、本とか、名前を歴史上に残すとか、そういう考え方もあります。
これもねー、自分が死んだ後も、この世の中は未来永劫続いていくって考え方が根底にあってのこと。私は、子供心に、自分が死んじゃえば、世の中が続こうが滅びようが関係ないって思っていたはずです。
何か、自分以外に、世界や歴史を俯瞰的、客観的に見ることができる存在を想定できないと、そういう結論になりますよね。
そう考えると、これも、宗教に近い絶対的存在があるということが前提になる。または、自分の脳内に、世界とか、宇宙とか、そういう客観的世界とそこに住む自分というものを創造できないと。
これも子供には無理だなー。
最後に考えるのは、どうせ人はいつかは死ぬのだから、たとえ刹那的といわれようと、今その瞬間を悔いなく生きよう、それでいいじゃないかという考え方。
でも、そう思おうとすると、二つ目の「楽しみに思っていたことは、必ず終わってしまう」という、時間の概念の問題に行き当たる。。
長くなってしまったので、ここから先はまた次回考えることにしますが、新書一冊で、私にこれだけの哲学をさせてくれたこの本、なかなかの名著と思います。
子どものための哲学っていうから、哲学を、子供向けに、分かりやすく解説したものかなって思ったら、違いました。
ヴィトゲンシュタインとかシュレジンガーとか、有名な哲学者の書を学んでも、それは他人が哲学をした結果を知るだけ。
自分のが子供の頃に問題だと思っていたけど、いつの間にか考えることをやめてしまったこと、それを考えることが、自分にとっての哲学だそうです。
早速やってみることにしました。
自分が子供の頃、何を悩んでいたかというと、次の二つであったと思います。
一つ目は、夜寝たまま朝目が覚めなかったらどうしようということ。
二つ目は、楽しみに思っていたことが、なぜ終わってしまうんだろうということ。
一つ目は、死に対する恐怖ですね。
寝ることは自我を一時的に放棄する行為であるわけですが、もし放棄したまま元に戻れなかったらどうしようということ。死を単純に自我の喪失ととらえ、恐怖しているところがさすが子供、死を余計な情報を排除して根源的に考えればこういう発想になります。
子供心にこんなことを考えたのは、自分の周りで、急性心不全とかで寝たまま死んでしまった人の事例を見聞きしたとかの、今は深層心理に沈んでいる幼児体験があったのだと思います。
死の恐怖に対する、大人の考える対応措置の代表例は宗教です。
ユダヤ・キリスト・イスラム教系の一神教は、死後の世界が存在するものとし、善行を積み、神を信じれば天国に行けると教える。いかにも強者に虐げられた民族の宗教という感じです。
一方で輪廻転生という宗教観があり、こちらは、次々と生命が死に、そして生まれる、生命力あふれる南方系って感じがします。
いずれにしても、肉体はなくなっても霊魂は不滅って発想で、今これを心の底から信じている人って、一部の原理主義の方だけではないでしょうか。
私はキリスト教の幼稚園に通っていましたが、天国なんて全く信じていませんでした。
もう一つは、周囲の人が自分を忘れない限りは死んでいない、人の心の中に生き続けるってやつ。
ないしは、仕事上の成果とか、芸術作品とか、本とか、名前を歴史上に残すとか、そういう考え方もあります。
これもねー、自分が死んだ後も、この世の中は未来永劫続いていくって考え方が根底にあってのこと。私は、子供心に、自分が死んじゃえば、世の中が続こうが滅びようが関係ないって思っていたはずです。
何か、自分以外に、世界や歴史を俯瞰的、客観的に見ることができる存在を想定できないと、そういう結論になりますよね。
そう考えると、これも、宗教に近い絶対的存在があるということが前提になる。または、自分の脳内に、世界とか、宇宙とか、そういう客観的世界とそこに住む自分というものを創造できないと。
これも子供には無理だなー。
最後に考えるのは、どうせ人はいつかは死ぬのだから、たとえ刹那的といわれようと、今その瞬間を悔いなく生きよう、それでいいじゃないかという考え方。
でも、そう思おうとすると、二つ目の「楽しみに思っていたことは、必ず終わってしまう」という、時間の概念の問題に行き当たる。。
長くなってしまったので、ここから先はまた次回考えることにしますが、新書一冊で、私にこれだけの哲学をさせてくれたこの本、なかなかの名著と思います。
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