岸壁の母
21.8.13妻と二人、舞鶴方面にドライブ‥・引揚記念館、引揚復元桟橋、赤レンガ博物館を見て歩きました。展望台からは桟橋が眼下に見られ、岸壁の母、異国の丘の歌碑、平和の銅像などがおかれ‥・館内には当時の資料、写真などが数多く展示されていた、引揚船はもっと小さな船かと想像していたが、6000トンクラスで引揚船の数も相当数あったようで驚いた。港はそんなに広くはなく、浅瀬で大きな船が何千人もの人達を運んで入港をくり返したようにはとても想像できません。
引揚と舞鶴港(以下はパンフレットから抜粋)
昭和20年(1945)第2次世界大戦の終結にともない、当時海外に残された日本人は660万人以上ともいわれ、これらの人達を速やかに帰国させることになり、これを「引揚げ」という、舞鶴港は政府が指定した引揚げ港の一つとして、昭和20年9月7日引揚げ第1船が入港、昭和33年(1958)9月7日の最終船までの、13年間の長きにわたりその使命を果たした。昭和25年以降は唯一の引揚げ港として「引揚げのまち舞鶴」の名を全国に広めた。
舞鶴引揚記念館は、昭和63年(1988)4月に開館、年々遠ざかりつつある、戦争や「引揚げ」の史実を語り継ぎ「平和の尊さ、平和の祈り」のメッセージを発信しつづけている。
記念館から近く、町の中に「赤レンガ博物館」があり、レンガの製造工程など、写真で世界のレンガ建造物も見られる。博物館の近くにはレンガの建物も多く存在して見応えありです。是非訪ねてほしいお勧めどころです。 21.8.15記
21.8.13妻と二人、舞鶴方面にドライブ‥・引揚記念館、引揚復元桟橋、赤レンガ博物館を見て歩きました。展望台からは桟橋が眼下に見られ、岸壁の母、異国の丘の歌碑、平和の銅像などがおかれ‥・館内には当時の資料、写真などが数多く展示されていた、引揚船はもっと小さな船かと想像していたが、6000トンクラスで引揚船の数も相当数あったようで驚いた。港はそんなに広くはなく、浅瀬で大きな船が何千人もの人達を運んで入港をくり返したようにはとても想像できません。
引揚と舞鶴港(以下はパンフレットから抜粋)
昭和20年(1945)第2次世界大戦の終結にともない、当時海外に残された日本人は660万人以上ともいわれ、これらの人達を速やかに帰国させることになり、これを「引揚げ」という、舞鶴港は政府が指定した引揚げ港の一つとして、昭和20年9月7日引揚げ第1船が入港、昭和33年(1958)9月7日の最終船までの、13年間の長きにわたりその使命を果たした。昭和25年以降は唯一の引揚げ港として「引揚げのまち舞鶴」の名を全国に広めた。
舞鶴引揚記念館は、昭和63年(1988)4月に開館、年々遠ざかりつつある、戦争や「引揚げ」の史実を語り継ぎ「平和の尊さ、平和の祈り」のメッセージを発信しつづけている。
記念館から近く、町の中に「赤レンガ博物館」があり、レンガの製造工程など、写真で世界のレンガ建造物も見られる。博物館の近くにはレンガの建物も多く存在して見応えありです。是非訪ねてほしいお勧めどころです。 21.8.15記