今日の空。
あさ空は雲多し。日の出は見えない寒い空が広がっています。
父は草むしりが好きな人でした。
もちろん、多忙な日々なので、そうそう時間は取れないのですが、
「やるぞ」となったら、嬉々として何時間でもやっている。
それはありがたいのですけれど、はた迷惑なのが、大音量でラジオを
流しながらやること。とてもうるさいのです。
室内なら、そこまでご近所には響かない立地ですが、庭ではちょっと。
ご近所に嫌がられることは確実なので、止めるのですが、そういった
ことを気にする人間ではなく。せめてイヤホンででも聴いてくれたらと
思っても、そういう配慮もしたくない。
自分のやることに制限をかけられたりすることが大嫌い。
何十人ものお手伝いさんたちに傅かれて育ったお坊ちゃま気質が抜けず、
家人の言うことには従わない人でした。
私はあまりの傍若無人ぶりに心の中で「殿、仰せのままに」とつぶやく。
母は草むしりは大嫌い。こちらは姫育ちで、そのようなものは、ご自身で
おやりになるのはお嫌なようでございました(笑)
ただ、ふたりが共通してお好きなのが、植栽でございます。
「狭い庭にそんなに木々を植えてどうなさるおつもりですか?」
と、思う娘という名の下僕(私)。
殿と姫に言えば、暴言で返されるのは必至なので、黙って見過ごし続け、
結果、ジャングルと化した庭。
もちろん、父亡き後、私も懸命に庭の手入れはして来たのですが、母も
病に伏し、その後、看取ったあとは、フルタイム会社員として就職した
上に、お休みが本当に少ない職場なので、どんどん追いつかなくなって、
「えらいこっちゃ」になり、思い切って、庭木を短く剪定して
いただくことにしました。
お約束では150㎝の高さにそろえてカットしていただくという内容。
私が休みの日にやっていただきたかったのですが、あちらの都合で、
私が出勤の日に剪定作業が行われました。
家に帰って、暗い中、目を凝らしたら、「え? えーーーーっ!」と
いう信じられない光景が。なんと、あの大量の木々は、すべて根元から
切られていて、何も残っていなかった。150㎝高さはどうした?
いくら何でも、こんなことはお願いした覚えはなかったけれど、
切ったものは元には戻せない。
だんなさま、奥さま、申し訳ございません。
下僕の不手際でございます。
あーあ。切ない。大きくなってしまってはいたものの、残していただき
たい木々もあったのに。どうしてこんなことに。
庭には椿の木が多くありました。すべて違う種類。珍しい洋種の大輪の
椿もあったのに。みんななくなりました。柿も奄美プラムも、毎年、
なるのが楽しみだったのに。
今、ほとんど外に出ない療養生活をしていると、庭木がそのままだったら、
季節の様子を撮って、ブログに載せられたのにと、本当に残念です。
雲は晴れない一日。
ちょっと探したら、いくつか写真が残っていたので、木々の追悼で
のせてみます。
ドクター・クリフォード・パークス
アメリカ生まれの洋種の椿です。
こちらは庭に咲く椿を花器に。
庭で採れた柿
うちの両親とは何事も考え方が違い過ぎて頭が痛くなることが多く。
どうして、こんなに狭い庭にここまで植えてしまったのかと、ため息ばかり。
おとなりを拝見すれば、きちんと体裁がととのえられて、決して増やしたり
なさらずに、植え替えるのは、お花を少しだけ。
どうして、あんな風に、バランスよくという考え方ができないのかしらと
思って来ましたが、さすがに何もなくなってしまうと、申し訳ない気持ち。
鹿児島市では春と秋の「木市」が開かれて、ひとつの風物詩となっていて、
そこをのぞきに行くのを楽しみにしていた両親がつい、買いたくなったのは
仕方なかったのでしょう。珍しい花木は見ているだけで楽しいものです。
鹿児島市のホームページから
かごしまの木市
木市のおこり
18世紀の末、第25代薩摩藩主・島津重豪(しげひで)が上方より優れた
庭師を招き、薬草園の設置や庭の手入れに従事させました。この庭師の
手伝いに吉野の人達があたり、庭園造りや植木栽培の技術を学びました。
その吉野の人達が明治の中頃、2~3人ずつ連れ立って市街地のあちこちで
その吉野の人達が明治の中頃、2~3人ずつ連れ立って市街地のあちこちで
市を開いたのが木市の始まりといわれています。
木市の歴史
明治の中頃に始まった木市は、戦後館馬場を中心に毎年開かれるようになり、
昭和30年には庭園樹の他、鉢物や果樹苗木・金魚、小鳥など、種類も増え、
出店数も150店を超えることもありました。
昭和33年からは、春と秋の2回開催されるようになり昭和35年には、木市の
昭和33年からは、春と秋の2回開催されるようになり昭和35年には、木市の
運営の円滑化と振興を図るため、鹿児島市木市振興会が結成されました。
さらに、昭和40年春までに開かれていた館馬場(国道10号線沿い)での
さらに、昭和40年春までに開かれていた館馬場(国道10号線沿い)での
木市は、交通量の増加により、昭和40年秋から、現在の市民広場で開催
されるようになりました。
今では、鹿児島の春と秋の風物詩として、市民憩いの場として愛され、
今では、鹿児島の春と秋の風物詩として、市民憩いの場として愛され、
親しまれています。
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