甲州枡じゃなきゃ、だめなんだ!

2021-05-24 14:13:04 | 紹介
令和3年5月も、もう後半です。甲府の梅雨も、もうそこまで☂

5月と言えば・・・

天明元年(1781)の5月、武田氏館跡(躑躅が崎館跡)に、
信玄公をお祀りする武田法性宮(ほっしょうぐう)の石祠が建てられたのもこの頃。

信玄公の墓所は、その死を秘したということもあり、何か所かありますが、
そのうちの一つ「火葬塚」も、武田法性宮に先立つこと2年、発掘・整備されているんです。

こちらが「火葬塚」の写真です。当館からも、歩けます!

天明といえば、天明の大飢饉、天明2年(1782)~天明8年(1788) を思い浮かべる方も多いかと。
けれど、天明年間は、そんな全国規模の大飢饉のみならず、政変、噴火、大火などにも見舞われた大変な時代。

厳しい時代だからこそ・・・でしょうか。
甲斐の人々は、再び信玄公を思い、荒れ果てたゆかりの土地を整備していきます。
でも、どうやらきっかけとなる出来事もあったようで・・・。

それは、甲州枡の廃止を巡る江戸の枡座と甲斐の人々のひと悶着。

事の発端は、石祠が建てられる5年前、安永5年(1776)、
枡の規格を全国で京枡に統一しよう(!)と、各地で実施された「枡」チェック!

ここで、ちょこっと甲州枡のご紹介💡
甲府市の方からご寄託いただいている甲州枡

穀類などを量るのが「枡」ですが、
当時、徳川幕府が全国的に普及させたかったのが「京枡」の一升枡(約1.8ℓ)。
一方、信玄公の下で定められた「甲州枡」は、全部で4種類あり、
一番大きな枡の容量は、「京枡」の3倍、約5.4ℓのものでした。
「大枡」とか、「信玄枡」などと呼ばれたようですが、そのネーミングに納得です。

京枡も十分大きいはずなのですが、甲州の「大枡」と比べてみると・・・!

徳川幕府の試み、枡の全国統一のお話に戻りましょう。
日本どこでも、枡の容量が同じ・・
そんなの当たり前だし、みんなにとって便利なこと、のように思えますが、
枡の全国統一は、すなわち甲斐国で愛用されてきた甲州枡の消滅を意味しました。

当然のことながら、甲斐国民はみんな大反対!
御料の村々の代表が集まって、甲府代官・中井清大夫に、その取り下げを願い出ます。

理由は4つ。

一つ。代々、田の神をお祭りする、農耕の神事でも使われてきた「大枡」。
これを廃止するということは、五穀の凶事を招きかねない!

二つ。「国枡」は、武田家の朱印が押され、家康公も認めた、由緒ある甲斐の「国法」。
加えて、年貢を納める時、京枡の3倍の「大枡」なら手早く計量できる。
それに、小さな枡は、朝夕女たちが使うに丁度良い。
手慣れた枡でなければ、仕事に差し支える!

三つ。新たな枡を買うとなったら、甲斐国全体で何千両もの出費になる。
近年の不作で疲弊している百姓を、さらに衰えさせていいのか!

四つ。甲斐の「国枡」のみならず、「斗桶」(斗は1升の10倍)も使えないというが、
他国と違い、甲州の小作人は籾付きの斗立てで納めている。
それを斗桶を使わず、「大枡」の3分の1の京枡だけで測るのは大変なこと。
これでは、小作人も疲れ果て、それこそ大騒ぎになり、
年内に年貢を納めることもままならないこと必定!

そこで出された幕府の妥協案は、
「大枡」に京枡を作る樽屋の印を押す。後は従来通りに使って良し。
・・これは妥協じゃないですね。本来の目的を、もうあきらめちゃってます。

枡屋としては、樽屋の印を預かって、「国枡」に印を押す以外はこれまで通り。
ゆえに、その妥協案を受け入れます。
一方、村々の百姓はその案にさえ、こぞって反対したといいます。

なぜ!?

その理由はまた今度😉 
次回もお読みいただければ幸いです🙇

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