当館、特別展示室にて展示中の錦絵「川中島大合戦の図」を見たお客さまに、
「馬が大きいね。」という感想をいただきました。
「川中島大合戦の図」(謙信公と信玄公の一騎打ち場面の一部)・江戸時代・個人蔵
ご指摘はごもっとも。
謙信公の馬は、確かに大きい。
信玄公を襲わんとする謙信公の馬を、背後から槍で突いたと伝承される
原大隅守こと原虎吉と比べても、
馬の体高150cm(立った状態で、地面から背骨まで)は堅いかと思いわれます。
この錦絵(※)は、謙信公ファンのために制作されたものでしょうか。
原大隅守のみならず、信玄公の大きさも控えめに描かれる一方、
軍神、謙信公の如く、
愛馬「放生月毛(ほうしょうつきげ)」もアラビア馬の如く✨大きく、美しく・・
あるべきだったのでしょうね。
・・・
日本の地を踏んだ西洋馬、第一号は、
天正10年(1582)、九州のキリシタン大名の名代としてローマに渡り、
天正18年(1590)に帰国した天正遣欧少年使節団が連れ帰った馬。
獣医師、調教師、蹄鉄工も従えて、
豊臣秀吉に献上された、そのアラビア馬の体高は150cm。
ポルトガル馬術を披露し、その大きさ、美しさは、見る者を魅了し、
大いに喜ばせたという記録が残されています。
江戸時代に入ると、馬の改良を目的に、西洋馬が輸入されるようになりますが、
8代将軍・吉宗はとりわけ熱心で、9度にわたって28頭輸入したとかで、
錦絵の作家や注文主が、
西洋の馬のサイズ感を、ウワサなどを通して知っていてもおかしくありません。
・・・
当館では、戦国時代の在来馬の全身骨格も展示しています。
その体高が126cmということもあり、
謙信公の馬とは裏腹に「小さいね」というコメントを頂くことが多いのですが、
謙信公の「放生月毛」の体高だって、120〜130cm位だったはず。
そう考えると、なおさらに当時の馬の大きさを確認できる
武田氏館跡から出土した馬骨は貴重なんです。
現段階では、戦国時代を生きた馬の全身骨格としては唯一の出土例ですので。
骨の状態から、栄養に恵まれ、筋肉質であったことが推測されています。
駄馬のような、骨の変形なども見られないため、
当時の人と同じように、北枕西向きの状態で、丁寧に埋葬されていたこの馬は、
生前は、軍馬として出陣していたと考えられています。
信玄公の嫡男、武田家を率いるはずだった義信の新居が建てられた西曲輪と、
堀をはさんで向かいの梅翁曲輪跡から出土していることから、
信玄公の愛馬「黒雲」(!)とまでは言えないまでも(^^ゞ
武田家に関わる上級武士の愛馬❤の呼び声高く✨
歴史ドラマのサラブレットな騎馬隊とは違うけど、
戦国武将たちが恐れたという、武田の馬之衆(騎馬隊)のイメージの源、
当館でなら・・見つかるかもしれません。
↑館跡より出土した馬鎧のパーツ
大切な軍馬が戦に赴く時、
固い革に漆、そして金箔を施した馬鎧が用意されました。
↓こちらもぜひご覧ください。
(※)錦絵とは、江戸中期以降、版元、絵師、彫師、摺師の4者分業で制作された
多色で刷られた精巧な木版画。
プロマイド、ポストカード、パンフレットのように親しまれました。
錦絵が誕生したのは明和2年(1765)、第10代将軍・家治の時代。
田沼意次(1719−1788)と聞けば、賄賂政治といったイメージが強いですが、
それまでの緊縮財政から一転、商業資本が積極的に利用された時代であり、
そういう時代の雰囲気の中、裕福な俳諧人の要望で生まれたのが、
贅沢で華美な浮世絵の1ジャンル、錦絵でした。
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