穴太(あなふ)衆の石垣が結ぶ館と城

2022-11-14 18:07:32 | 紹介
紅葉が進む武田神社境内にもなっています武田氏館跡をご紹介しましたが、
散策するにはとても良い季節です。
信玄ミュージアムで少し館跡としての見方、歩き方を知ってから現地に行かれると、
より散策が楽しめますよ。

さて、戦国大名武田氏が拠点とした躑躅が崎館(つつじがさき)は、
文字通り基本は居住を中心とした館造りです。
土を切り盛りして築いた館で、石垣を積んだ近世の城ではありませんでした。
ですが、戦国時代も終わりに近づくと、武田氏以後の勢力によって徐々に城郭化。
土で築いた館に石垣の構造物が加えられ、城として再整備されますが、
その後、南におよそ2.5キロ下った場所に石垣造りの甲府城を築城。
総合的な学術調査を経て、門や曲輪の改修・整備が行われましたが、
その時、石垣も伝統工法を基本に補修されて今日の姿に。

甲府城が完成するまで、甲斐国統治の拠点は躑躅が崎館に置かれたため、
勝頼公により一時廃城とはなりますが、
館には、信虎公から甲府城完成までの74年の歴史がつまっています。
現在、整備されて見学しやすくなった館跡の見どころも多々ありますが、
土の城から石の城への変遷が随所に見られるところが魅力の一つ。

武田氏滅亡後は、織田氏、徳川氏、豊臣氏が順に甲斐統治の拠点とした館。
甲斐国含め、社会情勢がまだ落ち着いていなかったからでしょう。
新たな城主たちの下で、天守台や曲輪が築かれ、館の増強が進められました。

↓の写真は、信玄公の嫡男・義信のかつての新居・西曲輪の北と南の門跡。
武田氏時代は土塁で囲まれた虎口と門でしたが、
その後、土塁表面に石を積むようにして、強化されました。
館の改修の目的が城郭化だったことが視覚的にわかる遺構です。

門の脇に組み上げられた石垣の「礎石」()にご注目。
武田氏時代の礎石がそのまま再利用されています。

ちなみに、石垣は「野面積み」という、自然石を加工せずに積んでいく工法。見た目は豪快。
でも、1600年頃から登場する、加工した石をきっちり積み上げる工法の方が耐久性は上!?
いえいえ、そんな見かけで判断してはなりません😤 
石と石の間の隙間のおかげで、地震が起これば揺れによる圧力が分散され、
大雨が降っても、隙間から、ばっちり排水。

2016年、熊本地震が発生しますが、、熊本城が有する4種類の石垣の中でも、
野面積み部分には、ほとんど崩落がなかったと報告されています。

武田氏館と甲府城の石垣に携わったのが「穴太衆」というのもポイント。
穴太衆は比叡山山麓の出身で、古墳の築造にも携わった石工の末裔とされ、
安土城の石垣を作ったことで、「石垣と言えば穴太衆!」とばかりに人気急上昇。
江戸時代初頭までに築かれた城の多くで、石垣の施工を指揮したのは穴太衆だったとも言われています。
そんな彼らのシゴトが甲府にも遺され、武田氏館と甲府城をつないでいます・・・。

・・・・・


復元された石積(信玄ミュージアム内)
地下に水を通した暗渠や、屋敷や道の区分けのためにも活用されました。

こちらでは、発掘中の写真が紹介されています。
館の造成において、石積がどのように使われたかがよくわかります。

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