川中島の戦い、どっちも勝者!?

2022-08-21 17:46:59 | 紹介
学校の夏休みも終わりに近づきましたが、皆様はこの夏いかがお過ごしに
なられたのでしょうか?
当館にも自由研究でご来館される小学生もいらっしゃり、お声がけいただいた
方には参考となるかわかりませんが、ミニブックの配付もさせていただきました。

そして、令和4年、信玄ミュージアムのお楽しみ企画「決戦・川中島!」
ご来館の皆さまの投票で、
どちらが勝ったかはっきりしない「合戦の決着をつけちゃおう!」という企画です。
現在のところ、武田勢が優勢です!ここがホームですからね😉

それにしても450年以上前の戦の勝敗が、未だにはっきりしていないとは。
オセロのような陣取りゲームをするとして、
皆さまなら、何をもってして「勝った!」となりますか?

上杉謙信と武田信玄が戦った「川中島の戦い」の場合、
第一次は、両者それなりの成果ありで退陣
第二次は、今川義元の仲介で和睦
第三次は、信玄公が決戦を避けたため、決着つかず
第四次は、う〜ん
第五次は、にらみ合いで終了

五回の合戦の中でも最も激戦と言われている第四次はどうだったのでしょう。
永禄4年(1561)、八幡原(はちまんばら)の戦いとも呼ばれますが、
上杉軍は善光寺に兵など五千人を残し、妻女山に一万三千人で布陣。
信玄公は二万の兵とともに陣を構えるも、にらみ合いが続いて・・・。
膠着状態を打破すべく練られた戦法が、あの「啄木鳥戦法」。
作戦を決行するも、それに気づいた上杉軍が裏をかき、武田軍はまさかの大苦戦。

手薄になった武田軍本陣に切り込んできた武者は・・・というエピソードこそ、
あの、謙信公と信玄公の一騎打ち。

キツツキのくちばし役を果たすはずだった別働隊が八幡原に急ぎ到着、
上杉軍を武田軍本隊と挟み撃ち、上杉軍は善光寺へ敗走・・・
でも、武田軍も、武田信繁、山本管助といった大将たちを失うなど、被害は甚大。

武田勢四千人、上杉勢三千人が戦死したと推定されています。

一般的に戦死者が1%出れば、負傷者はその10倍となり、
全軍の10%近くが戦闘不能となり、戦いは終結したとか。
徳川家康が信玄公に大敗した「三方ヶ原の戦い」の場合の死者は3%。
対して第4次川中島は数10%と見込まれていて、まさに前代未聞の地獄絵巻。

いずれにしても、謙信公、信玄公共に勝利宣言されていらっしゃる💦

とても対照的な二人の武将。

謙信公は、どちらかといえば中世的な武将であり、大切なのは戦の勝敗。
「川中島」でも、戦で武田軍を追い出すと、上杉軍も越後へ帰還。
そもそも「川中島」は北信濃の村上義清が謙信公に助けを求めたことが発端。
「勝ち取った土地を支配しよう」とは、あまり思わなかったのかも・・・しれません。

一方で、より近世的な政治家・信玄公にとって大切なのは、支配勢力の拡大。
謙信公が越後に帰ったのを見計らって、城を築くなど支配領域を少しずつ広げ、
北信濃の武士たちも次第次第に味方に引き入れていったと言われています。

謙信公にとっての勝利が、点と点でも、一時的でも、戦闘に勝つことなら、
信玄公にとってのそれは、北信濃を面で領有し、支配勢力を少しずつでも広げること。

こう考えると、お二方とも、確かに勝っていらっしゃる!?
両陣営の勝利宣言は、「単なる喧伝!」とは、どうやら言い切れない!?

そして、喧嘩といえば、最近良く顔を出すお兄ちゃん。
猫界のリアル戦国時代を生きております。
縄張り争いか、寅ニャン♀をめぐる争いか、
とにかく喧嘩の生傷が絶えない硬派な♂ですが、
このところは、のんびりくつろぐ姿を度々目撃しております。

今日は古城園のミニ蕎麦畑でここ掘れニャンニャン。
いたずらしなくて良いから、信玄公のお宝を探しておくれ。



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