近江王朝の系譜の謎
「顕宗天皇」弘計尊・来目稚子尊・父は市辺之忍歯王(履中天皇の皇子)、母は蟻臣夷媛、皇后難波小野王、没年三十八歳、在位三年間、皇宮近飛鳥八釣宮、陵墓傍丘南陵(奈良県香芝市北今市、弟顕宗天皇は双子と言われ、播磨に身分を隠していた時に、牛飼い、馬飼いの業を因み、子笥、大笥と名前であると言う。説話に依れば、皇位継承で互いに譲り合った話で有名で、父王が雄略天皇に殺された話を知って、兄弟は直ちに逃亡し「古事記」に依れば播磨国の志自牟の家に働いていた。「日本書記」では丹波国に行き余謝郡に行き、後で播磨国明石郡の縮見屯倉の首の忍海部,造細目に仕えたとする。古事記の説話に「置目老媼」天皇が父王の市辺王の遺骨を探しておられた時に、近江に住む卑しい老婆が「王子様のお骨の埋めた所を私は知っている、歯も知ることが出来ます」父王の特徴は羽が三つに分かれ大きい歯だった。そして骨を捜し掘り起こし、蚊屋野東の山に御陵を造った。その後父王の骨を河内の近飛鳥宮に持って上がられ、教えてくれた老女にお召しになり「置目老媼」と名付けて大切にされたと言う。「猪飼の老人」父王が逃亡の折りに、召し上がり物を奪い去った猪飼の老人を捜し,都に連れてきて飛鳥川の河原切り殺し、一族の者を膝の切る刑に処した。以後猪飼の子孫は都では足が真っ直ぐに立てない逸話があったそうだ。「雄略天皇陵破壊」父王を殺した雄略天皇を恨み、御魂にまで報復をしょうと思われたが兄王(意祁命)の忠告で人を指し向けずに、私自ら自分の手で壊してきましょう。天皇は承知した。兄王は河内国の丹比に行き、雄略天皇陵を少し掘り起こして帰られた
。天皇は余りに早く帰られたので、どの様にされたか聞いた所、「御陵の傍らを少し掘り起こしました」父王を殺した前天皇は仇ですが、我ら叔父であります。
もし全部壊したとしたら、後世の人は非難するでしょう。少しではあるが父王の恨みを晴らしたと告げて、天皇をたしなめられた。その後、天皇が三八歳の若さで崩御、兄王の意富祁命が即位された。「日本書紀」には任那・高麗との通交の記事が残されている。阿閉臣事代が、命を受け任那に使いを出した。この時月の神が憑いて「皇祖、高皇産霊は天地を造りなった巧がある。献上すれば、慶福が得られるであろう」山城国の歌荒樔田を奉じ、壱岐の県主の祖先が押見宿禰がお祠り仕えた。この年に、紀伊磐宿禰が、任那から高麗へ行き交い、官府を整えて自ら神聖と名乗った。任那の佐魯、那奇他甲背らが計り、百済の臣を殺し帯山城を築き東道を守った。勢い盛んで打ち破って言った。こうして父王の無念を晴らし、助けたものには恩賞を与えられた。「仁賢天皇」億計尊・大脚、父は市辺之忍歯王、母は蟻臣夷媛、皇后春日娘皇女、没年50歳、在位11年間、陵墓埴生坂本陵(藤井寺市青山)、皇宮石上広高宮。天皇は石上広高宮にあって和珥氏系の女性と結婚関係が有ったとされている。その一人に雄略天皇と珥臣深目の娘との間にできた春日大娘皇女である。雄略の童女君と一夜的妻がいて、それが仁堅天皇の皇后の正統化にさせ、更に継体天皇の皇后になった。ワニ氏系の天皇である。「古事記」には簡単な記述のみ述べられている。手白香皇女の生母の血筋を引くもの重く見る考えがあって、もう一人の妃も和珥氏に出自する女姓で春日山田皇女をもうけ、継体の皇子安閑の妃となった。宣化天皇の妃も仁堅天皇の娘の橘仲皇女であった。そうして継体天皇の血脈の継承を複線を打ち出すことによって、継体以降の連続性を強調する思惑があったようである。仁堅天皇には皇女が多く、皇子は一人、それも実在は疑問視されている。「日本書紀」には「日鷹吉高麗に使わす」記述が残されている。日鷹吉士を遣わして高麗に送り、巧手者を召された。その残された女の嘆きと泣き声と物語を書き綴ったもの、があって再び高麗から帰ってきた様子を書き、高麗の渡来人を奉じ、その子孫が倭国山辺郡の額田の皮工高麗の子孫と記されているが、その内容に意味不明なとこがあって判読しにくいものがある。「武烈天皇」小泊瀬稚鷦鰞尊、父は仁賢天皇、母は春日大娘皇女、皇后春日娘子、没年18年、皇宮泊瀬列城宮、陵墓傍丘磐坏丘北陵(奈良県香芝市今泉)母は雄略天皇が和珥深目の娘を娶って産んだ女性なので、ワニ氏系の天皇といえる。「日本書記」には“影媛と鮪”の説話には、武烈天皇には御子がなく、臣下の平群真鳥臣の勢力の台頭が見られる。仁賢天皇の崩御後、欲しいままに天皇を欺くように節度をわきまえなかった。物部角鹿火大連の女の影媛を娶ろうとされ、仲人を命じて影媛の家に赴き約束された。影媛は真鳥大臣の子に鮪に犯されていたので、大子に発覚すること怖れて、表面的には造ろう、命に反し裏で影媛は通じ、偽り続けた。無礼な親子についに太子は怒られた。大伴金村連の命じて、兵を集め討つことを計画された。大伴連は数千の兵を率いて、逃げ道を塞ぎ、奈良山に殺した。影媛はその有様を見て気を失った。大伴連は太子に進言し、平群真鳥を討つ事を提案し相談した。大伴連は兵を率いて、真鳥の館を取り囲み焼き払った。その責めは一族にまで及んだ。全てが終わった後、大伴連は太子の徳を讃えて、即位を奉じた。その恩賞か大伴金村連は大連とした。”武烈の暴虐“の説話に武烈天皇の暴虐は人民の評判は芳しくなったようである。春日郎子を皇后として立てたその年に、妊婦の腹を割き、胎児を見た。翌年には人の生爪を抜いて、山芋を掘らせた。翌年には人の頭の髪を抜いて樹の上に登らせて、木を切り倒して落とし殺し面白がった。こんな武烈天皇の愚行を百済の王を例えに出して、百済の未多王が無道を行い、民を苦しめた。国人はついに王を捨てて、嶋王を立てた。武寧王である。その後、武列天皇の残虐な愚行が記載されている。人を池の堤の桶に入れて、外に流れるのを三つの刃の矛で刺し殺して、喜んだ。詔して、「国政を伝えるかなめは、自分の子を跡継ぎに立てることが重要である。自分には後継ぎがない。何を持って名を伝えようか。」と継嗣に恵まれなかった天皇の嘆きが伝わる。ある年には、女を裸にして、平板の上に座らせて、馬を引き出して面前で交尾をさせた。女性の陰部を調べ、うるおっている物は殺し、うるおっていない者は、官婢として召しあげた。思うつくままに、贅を尽くし暖衣をまとい、百姓の凍えることを意に介せず、美食を口にして民の上を忘れた。ふしだらな騒ぎを欲しいままに、酒と女に溺れた天皇は列城宮にて崩御した。*天皇の残虐性は継嗣のいなかった事と、嗜める者もない孤独さを伝え、自暴自棄の用紙が窺えるものである。「日本書紀」の編纂者は、皇祖を恥じる事無く、赤裸々に武烈天皇を書き記している。「継体天皇」大男迹王・彦太尊、父は彦主人王、母は振媛、皇后手白髪郎女、后妃尾張目子媛。没年82年、在位25年、皇宮樟葉宮、筒城宮、弟国宮、磐余王穂宮、陵墓三嶋藍野陵(茨木市太田)皇孫の中でも、最も特異な継承で皇位を引き継いだ天皇と言えよう。万世一系の皇孫に有って傍系といって、よいほどの「古事記」には「品太天皇」五世之孫して、「日本書記」には応神天皇の五世孫、母方は垂仁天皇の八世孫で、父の名は彦主人王、母の名は振媛と記されている。振媛について「日本書紀」には振媛の容姿端麗でたいそう美人の噂を聞き、使を遣わして越前国坂井の三国に迎え、召しいれて妃とされたと言う。 その後継体天皇の父王が亡くなられたので母方の高向(越前国坂井郡高向)の帰り親の面倒を見ながら育てたいと越前に帰られたという。五代の前の祖先が天皇といったもので、遠祖を立てなくても、大和王朝の近親の皇子、王が存在して居ただろうが、皇位を継承御子が途絶える事が考えられるであろうか、五代前の地方の皇族を継承させなければ成らない、深い理由が有ったのかも知れない。「古事記」では継体天皇の出自については「近淡海国」〔近江国〕「近江国高島郡」で生まれ、幼少期母と「越前三国」に行きそこで育った。大和、河内から遠く離れた所に居る皇系の存在も不自然に思われる。「日本書紀」には大伴金村大連などの重臣が集まって協議がされた。「今後継ぎが居ない、と憂い・・・・仲哀天皇の五世の孫、倭彦王が丹波国の桑田郡に居られる。試みに兵士を遣わしお迎えしてはどうか」と言った。所が、計画通り迎えに行った所、兵士を見て望見して恐れをなして、山中に遁走し行方不明となった。また重臣が集まって協議が行なわれ、男大迹王は性格の良い情け深く、皇位を継ぐに相応しいお方で、お勧めして皇統を栄えさせよう」物部角鹿火大連、許勢男人大臣らは皆他に見当たらないと賛同し、再度迎えに行くことが決定した。連らが、君命を受けて節の旗を持って御輿を備え、三国にお迎えに行った。兵士らが囲い守り、容疑いかめしく先払いをしながら到着すると、男大迹天皇は、ゆったりと床几にかけて侍従を整列させて、既に天子としての風格をそなえられていた。天皇は河内国交野郡葛葉の宮につかれた。重臣は天子のみしるしの鏡、剣を立ては拝礼をしたが、天皇は「国を治めることは大事なことだ、自分としては天子としての才能はない。力不足である。良く考えて賢者を選んで欲しい」と辞退されたと言う。大伴大連らは口を揃えて「国を治められる適任者です。どうか国の為に、多数の者の願を聞いてください」重臣ら世を治めるには、確かな皇太子が必要と后妃を進めた。先々代の仁賢天皇の皇女である手白髪命を進め、娶られた。やがて生まれた皇子が天国排開広庭尊(欽命天皇)である。前王統の入り婿的な立場で血脈は引き継がれる。元からの妃、尾張連草香の娘を目子媛と言う。二人の皇子を生み皆天下を治められた。安閑天皇と宣化天皇である。こうして葛葉(大阪枚方市)で即位したのちに、山城筒城〔京都府京田辺市〕に次ぎに弟国(京都府長岡京市・向日市)と遷都され、磐余穂宮〔奈良県桜井市〕に宮を置かれたときには二十年を経過していた。* 一般的には継体天皇の天皇継承には王朝交代と見るのは自然と誰もが思い、皇位継承の血脈の大前提に、応神天皇、垂仁天皇の血脈を持って皇統の正当性に説得性を求めた。推測として近江、越前の大豪族が中央の王朝を倒し,大和に居を構えるに年数を要した。一地方の豪族に妥協案に前王統の血を引く者の配偶者で后妃で、皇子の皇位を持って大和入りが可能になったのかも知れない。もう一つに継体天皇擁立に大和の豪族、重臣らの積極的な働き掛けも王朝交代の説に考慮しなければならない。「任那四県の割譲」 継体天皇時代の朝鮮半島との交渉はどうなったのか、穂積臣押山を百済に遣わし、筑紫国の馬四十四匹賜った。百済が使いを送り、任那の四県を欲しいと願った。穂積臣は奉じて「この四県はは百済と連なり、日本から遠く離れて国の様子がわかりにくい、このまま切り離した方が後世の安全の為に良いのでは」と大伴大連も同調した。難波館に行き、百済の使に勅を伝えようとする時に妻が諌めて「住吉神は海の彼方は金銀の国である、百済、新羅、高麗は応神天皇が胎内に居られる時からお授けになった」こう言った流れに大伴大連は百済から「賄賂」を貰っている噂が流れた。*大伴連が百済の任那四県を欲しい要求に取り成しをした形で、古代でも「賄賂」の風習があったのかも知れない。「磐井の反乱」毛野臣が兵六万を率いて任那に行き、新羅の破られた南加羅を回復し、任那に合わせようとした。この時に筑紫国の国造の磐井が秘かに謀反を企て隙を窺っていた。新羅はこれを知ってこっそり磐井に賄賂を送り毛野臣の軍を妨害するように進めた。そこで磐井は肥前、肥後、豊前、豊後などを押さえて軍が職務を果たせないように、外には海路を遮断し、高麗、任那、百済、新羅の貢物を船を欺き奪い、内には任那の毛野軍をさえぎり、混乱させた。そこでこの乱を鎮める重臣が適任者を探したが、物部の角鹿火より他に居ないと、天皇に進言すると「それが良いと」物部角鹿火が派遣された。大将軍物部角鹿火と敵の首領磐井との激しい戦いでついに角鹿火は磐井を破り、反乱を鎮圧した。天皇が病に犯されて八十二歳で崩御、在位二十五年で藍野陵に葬られた。「安閑天皇」匂大兄尊・広国押武金日尊、父は継体天皇、母は春日山田郎女、没年八十歳、陵墓古市高屋丘陵(羽曳野市古市)安閑天皇は即位前は勾大兄皇子と呼ばれ「勾」は大和高市の地名である。生まれ育ったのは母の出身地の尾張と見られ、「大兄」と名乗った皇子は多いが、勾大兄皇子は継体天皇の崩御の前に皇位に就けたと言う。実際は数年間は二朝並立状態だと見なす説も多い。安閑、宣化は継体天皇が即位前で、尾張の后妃目子媛の生まれた皇子。欽明は天皇は仁賢天皇の皇女の手白髪郎女の生まれた皇子。安閑、宣化のほうが大和豪族の血脈からすれば、筋が通っている。また継体天皇が八十二歳で崩御、安閑天皇の没年が七十歳、在位五年で年齢的に無理があるが、十七歳で生まれたことになる。安閑天皇即位後、暗殺説もある。大和王朝内に二派があって、次の宣化天皇も五年の在位を考えればそれもうなずける。「宣化天皇」檜隅高田皇子・武小広国押盾尊、父は継体天皇、母は尾張目子媛、没年七三歳、在位5年、皇宮檜隅廬入野宮、陵墓身狭花鳥坂上陵〔奈良県柏原市鳥屋町〕宣化天皇は即位前は「檜隅高田皇子」と呼ばれ安閑天皇同様、尾張連の出身で生まれ育ったのは、尾張と言われている。
宣化は仁賢の皇女の橘仲皇女を娶り、石姫を産ませている。石姫は欽明天皇の后妃となって、後の敏達天皇を生んでいて、後々の皇継に繫がってゆく、また宣化の末裔には皇族が残されている。継体の皇子の内一番深く、前々皇系に結びついているのが、万世一系の理に適う一筋の糸であった。宣化天皇には即位と共に、蘇我稲目の起用である。「欽明天皇」天国排開広庭尊、父は継体天皇、母は手白髪郎女、后妃蘇我堅塩媛・蘇我子姉、没年63歳、在位33年間、皇宮磯城島金刺宮、陵墓橧隅坂合陵(奈良県明日香村)欽明天皇の「嫡子」と記される。安閑、宣化天皇の尾張連の出身と違って、仁賢天皇の皇女、手白髪皇女の血を引いていることの強調にある。母方を通して、雄略天皇の血も引いているのである。もう一つ特記される点は、未来の王権を脅かすであろう、大物豪族の起用と血縁関係の構築で、蘇我一族の台頭をきっかけとなる后妃の関係である。欽明天皇の六人の后妃に内、異母兄宣化の娘、三人の石姫らと二人は蘇我稲目の娘の堅塩媛、小姉君、もう一人はワニ系の女性である。ここから用明、崇峻、推古の三人の天皇を輩出するのである。蘇我氏に取り天皇家と婚姻関係を結ぶことによって、確固たる基盤を築く思惑と、飛鳥時代への大きな布石となった。「日本書紀」によると百済の聖明王より、欽明天皇に仏像に経典が送られてきた。重臣の内、蘇我稲目だけが賛成し、仏像を稲目に渡した。以後日本は仏教導入を通して紛糾し波乱が生まれるのであった。
大伴金村の失脚は蘇我の台頭と同時に、ふとした発言から大伴金村は失脚し時代の趨勢を物語、廃仏派の物部氏と蘇我氏の対立で、物部氏は失脚してゆくのである。外交では新羅謀略の戒め、任那を廻り、新羅が偽装し、一方任那は日本に復興の要請と、百済が絡み複雑に事態は変わってゆき、任那の復興の計画の最中、百済が高句麗に攻略され、防御に日本に救援要請が求められる。その内に任那が滅亡し朝鮮半島は混乱は、次ぎの飛鳥王朝時代の天皇に引き継がれてゆく。
了