お盆明けに出かけた、秋田の旅で、
ぜひ出かけたかったのが、「秋田市土崎みなと歴史伝承館」。
ここに空襲展示ホールがある。
土崎の空襲は、昭和20(1945)年8月14日夜のこと、
総務省「秋田市における戦災状況(秋田県)」によれば
「土崎空襲は終戦前の米軍最後の攻撃であったとされる 」と
書かれている。
この日、つまり玉音放送の前日に、
山口県岩国市、同県光市、埼玉県熊谷市、神奈川県小田原市も
空襲を受けている。
おそらく、空襲終了の時間をもって
土崎空襲を「最後の攻撃」としているのだろう。
10時間後に玉音放送を聴くことになった
罹災者の心情を思うと、やりきれない。
土崎空襲「展示ホール」見学記の前に、
太平洋戦争における「空襲」について
まずは、まとめておきたい。
本日は、わたしの学習メモであることを、先に申し上げておく、
お許しあれ。
ウクライナが、今も連日さらされているように、
空襲とは、文字通り、空から襲われること。
昭和17年4月18日、東京郊外の空襲以降2年間は、
本土が空襲されることはなかったが
昭和19(1944)年11月からは、空襲の頻度が増える。
というのは、戦局の大きな変化のためだ。
この年の7月、サイパン島が陥落、「絶対国防圏」が破られ、
10月のレイテ沖海戦で、海軍は壊滅的な打撃を受けた。
結果として、日本の戦争指導者は本土上陸を想定した
作戦に転換せざるをえなくなった。
一方のアメリカ軍は、サイパン、グアム、テニアンの各島を占拠、
これによって、日本本土へ給油なしに直接、戦闘機が飛べる
飛行場を持つことができた。
この結果、本土への空襲が増えたのだ。
だが、本当の意味で、アメリカ軍の空襲が激しさを増すのは、
1945(昭和20)年3月10日の東京大空襲からだろう。
10万人もの死者が出た、市民への無差別爆撃の開始だ。
アメリカ軍は、大正12(1923)年の関東大震災で
下町に大きな被害が出たことを詳細に分析。
その結果を踏まえ、木造家屋の多い都市部の
被害を拡大させるべく、焼夷弾を開発、投下する。
焼夷弾とは、ガソリンの一種ナパームを筒に詰めたもの。
これは、火がつきやすいうえ、高熱で長い時間、燃え続けるため、
すさまじい火災を起こす。
木造家屋がどうなるかは、文字通り火を見るより明らか。
しかも水をかけると、炎は大きくなるのだから、どうしようもない。
おそらく、当時、銃後を守る市民は、防空演習にならい、
真面目に水をかけたはずで、ますます被害は広がったのだろう。
消し止めるには、砂や泥をかぶせ、
さらに「ぬれむしろ」で押しつぶすしかないそうだ。
攻撃する側から言えば、焼夷弾は一点に絞って爆撃するのではなく
B29から、雨あられと落とせば良いのだから、
操縦士の爆撃技術を問う必要も無かった。
こうして東京大空襲を始まりとして
日本の各都市は焼夷弾による空襲被害を拡大させられた。
また、「空襲警報」の前に、「警戒警報」と呼ばれる情報もある。
東京を例にとれば、敵機が富士山方面へと飛んできたら、
まず「警戒警報」を出す。
ついで、富士山を越えたら、「空襲警報」へと切り替わる。
情報はラジオで伝えられ、番組を中断してアナウンスが入る。
空襲警報が発令されたら、市民は防空壕へ飛び込むしかなかった。
戦争末期は、連夜の空襲警報に、寝間着に着替えることなく
休んだと聞く。
飛び込んだ、防空壕も安全ではない。
個人なら庭に、あるいは町内共同での空き地に用意したもので
家から入れる床下式、穴を掘った縦穴式、
石垣を利用した横穴式があった。
どれも、ウクライナの防空壕のような堅牢な造りではない。
しかも、壕の上で火災が起きれば、
中にいた者は逃げることはできず、蒸し焼きになってしまう。
防空壕から出て、危うく一命を取り留めたとも、よく聞くではないか。
わたしが子どもの頃は、崖に掘られた防空壕が
あちこちに残っていた。
今も昔も怖がりなので、男の子達が入っていったあとを、
おそるそる入口でのぞき込んでいたことを想い出す。
美しい富士山は、横浜からも見える。
これを目安にB29の大編成が飛んできたんだなぁと、
ふと、空恐ろしくなることがある。
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おつきあいいただき、どうもありがとうございます。
空襲について、1度、きちんと整理したいと思っていたのが
本日の記事です。
戦史についてはWikipediaの各項目を、
戦時用語については総務省「一般戦災死没者の追悼」の
「用語集 -戦時中の生活等を知るための用語集-」を参考にしました。
間違いや勘違いもありましょうが、
素人のこととお許し下さいませ。