ままちゃんのアメリカ

結婚42年目のAZ生まれと東京生まれの空の巣夫婦の思い出/アメリカ事情と家族や社会について。

セレンディプティとは?

2017-09-15 | 系図のこと

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昨日まで3日間の記事は、系図調査と霊(Spirits)の介入(Intervention)についてであったが、調査はそれだけではないし、むしろ99%は地道な調査仕事である。しかしながら、系図調査において、往々にして起こることがある。それはserendipity(セレンディピティ)と呼ばれる現象である。

セレンディピティは、和訳にすると、デジタル大辞泉によれば、求めずして思わぬ発見をする能力、思いがけないものの発見、運よく発見したもの、そして偶然の発見、などである。アルキメデスの浮力の原理や、アレクサンダー・フレミングによるペニシリンの発見などは、このカテゴリーである。意図していたこととは全く別の幸運な結果を得ていることである。

例えば、ある人が傷心の旅で海辺へ行き、浜辺で、朝日に輝く色とりどりのビーチグラス(ガラスの破片が波と砂によって丸くなった物)を大量に発見!というのもその一例。このビーチグラスから、ジュエリーを作る人もいるし、人気がある。

朝日に輝くビーチグラス

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フランス語圏のスイス出身の両親がいた年配の医師の系図を調査したことがある。彼は最初の妻と離婚して長い月日を経ていたが、ついに再婚することになった。その新しい妻は、両親がフランスからの移民であったので、この医師から、今度は妻の系図を調査願えないか、と依頼されたのだ。

すでに他界していた彼女の両親は、港町シェルブール出身だった。シェルブールと聞いて Les Parapluies de Cherbourg(シェルブールの雨傘)と言う1964年のフランスミュージカル映画を思い出す方もいらっしゃることだと思う。あのシェルブールである。

結果を先に言えば、この調査は、オンラインでできる調査の範囲が非常に限られていて、マイクロフィルムをソルトレーク市にある家庭の歴史図書館へ頼むしかなかった。しかも極端に短いタイムフレームで、医師とその妻はあと一週間で新婚旅行にフランスとスイスへ行くのだと言う。それまでに調べられる限りのことを調べて欲しいと言ったのだ。

マイクロフィルムを頼めば、調査できることがたくさんあるのだが、時間がない。よって、私はシェルブール地域にある家族の歴史センターを調べ、その住所をリストし、またシェルブール地方の歴史資料館、カトリック教会の記録管理所の住所もリストして、それを手渡した。現地で調査したほうが、見つけやすいと思ったからである。

三週間ほどして帰国した医師夫妻が興奮気味にしてくれた話は、信じられない幸運であった。二人が彼女の両親が生まれ育ったエリアを散歩していると、向こうから一人のフランス人が歩いてきた。通りすがりに挨拶をしたら、彼は二人が外国人であると見抜き、興味を持って、どちらから?と尋ねたそうだ。二人が合衆国から来て、妻の先祖を探しに来たのだ、と言うと、気のよさそうなフランス人は、その苗字を聞いた。妻がその名を口にした途端、彼は思わず片手で膝を叩いた。XXXXXだって?それは私の苗字だよ!と叫んだ。そして、このすぐ近くにその苗字一族の墓地がある、と案内してくれたそうだ。そこには、彼女の曾祖父母など探していた名前があったと言う。

二人は散歩していたすぐ近くに墓所があることは夢にも思わなかったし、期待もしていなかった。これから教会の記録管理所へ行こうかと話していた矢先であった。そう話しながら歩いていたら、彼女の遠い親戚にあたるフランス人に出会ったのだ。あの時挨拶していなければ、そのままであったろうと、医師夫妻は言った。これは、系図のセレンディピティ。

これはほんの一例で、系図のセレンディピティは、まだまだたくさんある。もう一つの例をご紹介するが、それはまた明日。


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 Pottery BarnのPillow Cover(クッションのカバー) いいことがありそう。

 

 


霊も探している? その3

2017-09-14 | 系図のこと

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彼のフルネームを入れると、すぐに様々なドキュメンツが検索されて、その中にソーシャルセキュリティ死亡書(Social Security Death Index)があった。はやる気持ちを抑えて、クリックすると、当人であった。亡くなったのは、4月12日とある。その日は調べると金曜日である。私が彼を見たと”勘違い”したのは、亡くなった日の翌週の木曜日。アラームが鳴ったのは、5月の木曜日である。

亡くなった姉の元夫に最後に会ったのは、何時だっただろうか? 私はまだ中学生かその前くらいだったから、太古の昔。夫に先月見たと思った人は、この人で、なんと先月亡くなっているのよ、と言うと、夫は「ね?やっぱり、でしょ?メッセージは只一つ。忘れられたくない、でしょ。やっぱり、連れてきてたんだね。探してあげたら?」と言った。

彼や彼の先祖を調査してもいいが、でも一体そのリポートを誰に託せばいいのだろう? 姉との間の娘は3年前に不慮の事故死をしている。だが、とにかく調査を始めた。そうすると、なんとかなり早い時期、アメリカのコロニアル時代には、すでにケンタッキーの地に入植していた古い家族の出であるとわかった。その家系を私はオンラインのファミリーツリーにアップロードした。彼の他の結婚によって得た二人の娘達がいつかそれに気づくかもしれないと期待して

彼と亡姉のひとり娘、私の姪は、結婚していたが、子供はいなかったので、この姉のラインはその姪の死をもって終了している。親子三人早くに逝去してしまった。後日談だが、彼の他の二人の娘のひとりは、父親のお葬式を準備している最中、突然倒れて、そのまま亡くなってしまったと聞いた。なんということだろう。彼の末裔はたったひとりで、先細りの日本のようでさえある。

忘れられたくない、と言う思いは、逝去してから強くなるのかもしれない。マータの系図で書いたように。肉体を失っているから、この世とあの世界の間にある幕が非常に薄くなった時、言伝をしてくるのだろう。そして常にその幕の傍で、調査する者を探しているのかもしれない。

Forget-Me-Nots (忘れな草)

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霊も探している? その2

2017-09-13 | 系図のこと

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叔母の取り寄せていた戸籍謄本は、異なる戸主名で数通あった。一般に戸籍謄本だけで、7~8代遡れることがあるし、私自身も1790年生まれの先祖まで遡れた。叔母の父方は、送られてきた戸籍謄本だけで 5代遡れたのである。1775年に生まれた先祖までである。これ以上は戸籍以外の書類を探さなければならないし、オンライン化されていないので、実地調査が必要である。

見つけた名前を英文化し、コンピューターでぺディグリーチャートに書き込み、ファミリーグループレコードシート(ひと家族の生年月日場所、配偶者の名前、子供の名前)何枚か作り、東部の従兄に送った。この作業をしていて気づいたのは、この先祖の名前を叔母が、自分の子孫に覚えていて欲しいのだ、ということだ。あの、「お願い、よろしくね」はこのことだったのかもしれない。

幼い頃私は、この知的でセンスのよい一番若い叔母が大好きだった。疎遠にしていた時期を悔いるが、亡くなった時、それを報せてくれて、夢の中にも現れ、系図調査をする私に託してくれたのだと思う。その”仕事”を終えて、嬉しく思った。いつかこの叔母と彼女の夫の眠るアーリントン国立墓地を訪問して、”話して”きたいものだ。

こういうあちら側からの示唆は、これだけではない。今から4年前の4月家族の歴史センターで詰めていた晩、いつものようにパトロン(センターにお越しの利用者はこうお呼びする)のお手伝いを終え、丁度午後9時。センターは9時までだから、帰宅準備をして玄関口へ歩いていった。フォイアーには大抵いくつかイーゼルが立ててあり、そこにこれからの催し物の案内が置いてある。

そこを目の前にして廊下を歩いていた時、イーゼルの陰にアロハシャツを着た中肉中背の男の人がよりかかるように、立っているのをふと目の端に捕らえた。もうセンターは閉まったし、どなたかともう一度その方を見ると、イーゼルしかない。見間違いかと、あまり考えずに玄関を出て、車に乗り込んだ瞬間、あれは私の知っている人だ、と気がついた。変だな、彼だったら、ケンタッキーに居るはず。エンジンをかけると、突如鳥肌が立った。叔母の時と同じなのでは?

”彼”とは、亡くなった姉の元夫である。姉が長女を出産した直後に離婚している。その長女、つまり私の姪は、2010年の夏急逝している。帰宅して夫に話すと、見間違いじゃないの?と言う。でも見間違いでアロハシャツの色まで覚えているなんてことあるのだろうか?

ことはそれからひと月ほどして起こった。家は、セキュリティアラーム装置があるのだが、誰も居ない筈の家で、センサーが何かの動きをキャッチしてアラームを突然鳴らした。連絡は警察と夫に即時届き、夫が帰宅するとすでに警官が家の周囲を見回っている。そして警官が夫と共に家の中を見ることになった。ドアの鍵を開け、まずアラームを切って、ゆっくり各部屋を点検するが、誰もいない。

ドアや窓がこじ開けられた形跡もない。警官は夫に、犬猫を室内で飼っているか尋ねたが、マヤはその時にはすでに他州に住む息子家族に引き取られていた。立てかけてあった箒が倒れたというのでもない。だいたい箒類はランドリールームに置いてある。センサーは、少し大きめの虫が飛んだくらいでは作動しない。その時分太陽の電磁波が大量に放射されていたから、その影響がうちのアラームに作用したのか、と思ったが、それならば、殆どのご家庭にアラームのあるお隣やご近所のアラームも作動されるのではないだろうか?

現実にアラームが鳴ったのは、我家だけであった。結局警官も夫もなにも異常は見つけられなかった。その夜帰宅した私に、夫は、「もしかして連れてきたんじゃないの?」と言った。連れてきた、ってどういう意味?「霊。」と夫は言った。まさか。

夫にそう言われて笑いとばした私だったが、なにかひとつ気になって、マックブックを開けた。Ancestry.comへ行き、心当たりの人の死亡を確認しようと思ったのだ。先に家族の歴史センターのフォイアーで見たと”勘違い”した姉の元夫じゃないか、と思ったのである。

 

私でよければ、喜んで!

続く。


霊も探している?

2017-09-12 | 系図のこと

系図や家族の歴史を調査するということは、この世を去った人々について調べることである。調べていて、いつも感じることは、こちらが調査したい気持ち以上にあちらは、見つけて欲しい、探して欲しい、という気持ちがあるらしいということ。実際に探す手助けとなるヒントや、面白い”偶然”を送ってくれる。どんな系図家でも、そんな体験はいくつかしている。ここで科学的な証明は、いらない。

調査をしていると、ある祖先にとても思い入れを抱くこともあって、難しい調査であれば、あるほどそれは強くなる。思い入れがあると、昼夜寝食忘れるほど調査に没頭する時もある。そんな時、あちら側からの助けもやってくるのだ。

Trolleholm(トロールホルム)城の幽霊たち

   

 

ここに書いたコスチュームブレスレットをくれた叔母は、1999年冬、合衆国東部のとある街で、癌のため71歳で亡くなった。その日の朝は、私の住む地域で有名な冬の濃霧が、地から沸き立ち、視界を遮り、職場へ急ぐ車の中で、私は一瞬自分がどこにいるのかわからなくなったほどである。通い慣れている道なのに、とにかく一寸先も見えない。

こんなに濃い霧はひさしぶりだと思いつつ、路肩に車を寄せた私は、深呼吸をしてから、無事に職場へ着くよう、短く祈った。祈り終わると、途端に大きな悲しみが押し寄せてきた。不意を突くように何故こんな悲しみが湧くのか?思い当たることはなく、当惑したが、しばらくして意を決して再びドライブし始め、ようやくいつものパーキング位置につけた時は30分の遅刻。全く理由が見出せない悲しみが、まとわりついた一日だった。

帰宅して夫に、今日は、何故かものすごく悲しくなってね、と話し始めた途端、電話が鳴った。従兄弟からで、叔母が亡くなったと言う。ああ、それで。。。今朝の大きな悲しみは叔母の死だったのか。その時初めて叔母が胃癌だったと聞いた。メリーランドを旅行していた私がホテルから電話したのが、四年前の春で、それが最後だった。

母と叔母は、昔は、とても仲が良かったが、何かの誤解からか、かなり疎遠にしているうちに、母が亡くなり、叔母にはなんの恨みもツラミもなかった私まで疎遠にしてしまっていたのだ。それを悔いてももう彼女はいない。

しばらくして、ある夜私は夢を見た。3人の今は亡き叔母達と私が夜行列車に乗っていて、3人が下車する時、まだ座席に座っている私に向かって一礼してから、お願い、よろしくね、と言った。3人の叔母達は、申し合わせたように、50年は昔の古臭い、けれどシックなスーツ姿で若かった。とても鮮明に今でもその夢は覚えている。なにを私は依託されたのだろう?

ある日東部に住む従兄から一通の厚い封書が届いた。中には古い戸籍謄本などの書類が入っている。従兄の手短なメモが添えられていて、叔母の遺品を整理していて見つけたのだと言う。彼は日本語の読み書きはもちろん、話すこともしてこなかったので、私のことを思い出したのだろう。

彼は母親が以前戸籍謄本を取り寄せて自分の家系図を作ろうとしていたと言う。なるほど戸籍謄本の隅々にいろいろ書き込みがしてある。「R子(私)が系図調査するって前聞いたから、何かの役に立つかもしれないと思って」送ってきたという。もちろん、喜んで、と私は返事を書いた。

母と叔母達とは異父姉妹である。叔母の父親は、母親の父親と異なるので、今まで私は調べもしなかったし、第一直系ではないので、謄本も取り寄せることもできなかった。異父姉妹、と言うところに、何か軋轢があって、疎遠になっていたのかもしれない。何れにしてももう全て遠い過去のこと。この世のしがらみは、この世に置いていったと願いつつ、私は幾つかの戸籍謄本を調べ始めた。

  

北欧の14世紀の動物の骨片

この続きはまた明日。

 

 

 

 

 


エムプテイ・ネスターズの土曜日は

2017-09-11 | アメリカ事情

結婚して最初の10年に5人子供達が生まれ、育児に夢中で、子供達の服を作ることも普通の家事に加えてあったので、その間の世間の事情は、垣間見たイヴニングニュースで知る程度だった。その頃は勿論パーソナルコンピューターは、まだなかったし、車電話がお目見えし始めて、携帯と言ったら、懐中電灯やスイスアーミーナイフくらい。とにかく忙しい毎日で、その次の10年間も学校や楽器レッスンやオーケストラ活動やスカウト活動などの子供中心の生活だった。


一家7人暮らしでは、毎週末ウエアハウス(CostcoやSam's Clubなど)の店で買い物をしていた。食事時には子供達の友人の誰かも大抵一緒だったので、8〜10人前の調理をしたものだ。土曜日はベイキング・デイで、日曜のためのケーキ、パイを焼き、各種のクッキーを作り、朝食用に主にブルーベリーマフィンも大量に焼いたものだ。




合間を見ては、いつか大学へ行く時必要だろうキルトを一人づつに用意したくて、キルティング、タッチング(Tatting)レース、娘のドレス製作、ガーデニング、系図調査を一瞬の暇を見つけてはやった。昼間の大学勤務の片手間なのに、今思うと、よくあれだけ働いたものである。日曜日は教会だし、子供達は14歳から高校卒業まで早朝セミナリーがあった。忙しかったけれど、その渦中にいると、案外当人は、気がつかないくらい、早く日は暮れた。


やがて皆大学を終え、結婚し、とうとう夫と私が、エムプテイ・ネスターズ(空の巣族?)になったのは、四年前である。系図調査に専念できる!、図書館に入り浸れる!と喜ぶオタクな私に比べ、これからは、二人で旅行に出掛けられる、と喜んだのは夫である。確かに旅行はよくし始めたが、国内旅行は、90%が系図関係だった。いいじゃないの、あなたのご先祖だもの、と。


二人だけで行動を共にするのは、1982年以来。週末のグロサリー買い物も、ウェアハウスタイプの店舗へ行くのも、一緒で、ライドシェアで出勤もする。グロサリーストアではよく知人、友人に出会うが、「あなた方はいつも楽しそうに、まるでLove birdsのようですね。」と言われることが多い。別に特にそうしているわけではなく、お互い親友だし、5人育ててきた”戦友”でもある。


私たちの年頃のご夫婦が、日本では家庭内離婚という形でほとんど口を聞かなければ、食事も何もかも別々にするというのを知って、驚くと同時に悲しいことだと思う。余計なことだが、せっかくご縁あって、おそらく恋仲になって結婚を決めたであろうに。大概は長い結婚生活の最初から、妻は身を粉にして夫や子供や家族のために働いてきた、そうで、夫は結婚したのだという自覚がないかのように、振る舞い、妻への感謝を忘れてしまうらしい。


異文化、異人種、国際結婚は、難しいと言われてきたが、同じ言語、同国人、同人種でも結婚は壊れる時は壊れる。ご夫婦間の事情は、ご夫婦にしかわからないが、最初の気持ちを忘れずに、まず互いを先に案じることがもっとなされていたら、話し合いを通じてさらにお互いを理解しようとしていたら、あるいはもっと違った将来だったかもしれない。


結婚は「たかが紙切れ一枚」なのではない所以であろう。二人の個性も趣味も違いがあって、当たり前、その違いを乗り越える努力ができるか否かが、分かれ道なのかもしれない。私が如きが生意気だが、ふとそんなことを思う。


そうしたくても健康が問題だったとか、相手に先立たれてしまったとしても、そうした別れ目の瀬戸際でも互いを思いやってきたのなら、残された者は決して一人ではない。目には見えなくとも、一人ぼっちになってしまったと悲しむ相手のそばに亡い伴侶は佇んでいると思う。そして心の中で、その伴侶は生き続けていると信じている。


そんなことを、土曜日の朝、ハイエンド(お高い)なグローサリーストアを夫と歩きながら、考えていた私である。買ったのは、ここでしか入手できないサツマイモだけだったが、好きなチーズやチョコレートはこの次。何事も無理をしないでやっていこう。