水素燃料による発電システムをつくる東芝の工場(川崎市)の一室。張り巡らされたセンサーから5秒ごとにデータが送られてくる。
モニターに映るのは656項目のデータからはじき出された曲線や数字。生産ラインを流れる黒い正方形の「セルスタック」がどう作られているのか、刻々と変わる状況が手に取るように分かる。
「IoTでこんな世界が実現するとはねえ」
感慨深げに話すのが、スマート工場の仕掛け人である山崎英昭だ。1982年に入社して以来、デジタル機器の工場を渡り歩いてきた生産のプロ。
だが、山崎にはありがたくないニックネームがある。「東芝のクローザー」。在籍したいずれの工場も閉鎖(クローズ)の憂き目にあったからだ。
クリーンエネルギーを供給する水素燃料装置は、2015年に不正会計が発覚して以降、次々と事業売却を迫られた東芝に残された貴重な次世代のタネだ。
東芝は発電効率で世界最高水準を実現しており、売り込みに力を入れている。
その生産現場を託されたのが、なぜ「クローザー」なのか。山崎はさまざまなデジタル機器工場で究極のものづくりを目指した「伝道師」でもあったからだ。
「ナンバーワンの伝道師」が見たもの
山崎は東芝に入社する際、「これからはコンピューターの時代」と考え、パソコンやワープロを作る青梅事業所(東京都青梅市)を希望した。
金型の設計技師としてキャリアを積んだ入社8年目の1989年に青梅が生み出したのが世界初のノートパソコン「ダイナブック」だった。
瞬く間に世界シェア首位に上り詰め活気にわく工場内で語られたのが、「青梅ナンバーワン活動」だ。数ある東芝の工場の中で青梅を稼ぎ頭に育てようというものだ。
さらにノウハウを他のデジタル機器工場にも展開して東芝全体の競争力を高めようともくろんだ。
山崎も「ナンバーワンの伝道師」のひとりに選ばれた。派遣されたのは、テレビを生産する深谷事業所(埼玉県深谷市)。ところが、そこで見たのは「ノートパソコンの東芝」とはまったく違う光景だった。
05年の当時は液晶テレビなどデジタル家電が普及期を迎えており、深谷でも大増産の準備が着々と進められていた。深谷は24時間体制で稼働し、海外出身者も多いため9言語が飛び交ったが、問題を抱えていた。
液晶テレビで当時の東芝の国内シェアは1割。首位のシャープなどからは大きく引き離される4位にとどまっていた。
当時は液晶パネルの争奪戦が深刻化し、弱小の東芝は後回しにされる。山崎は「ひどい時には前日やその日にならないと(調達できるパネルの)量が分からなかった」と振り返る。
弱者の兵法
そこで始めたのが「1Day TAT(ワンデー・タット)」という取り組みだった。どの機種をどれだけ作るのかを毎日その日に決めて1日単位でものづくりを回す。
青梅で培った在庫を極力減らすリーン生産のノウハウを発展させたものと言えば聞こえはよいが、その実態は基幹部品であるパネルを持たない東芝がひねり出した弱者の兵法と言う方が正確だろう。
日本の製造業が磨いてきた、サプライチェーンとの擦り合わせの妙。それが生かせない弥縫(びほう)策はすぐに破綻する
。08年のリーマン・ショック後に政府が導入したエコポイントによるデジタル家電の販売促進策が終わると、需要が激減した。生産機能は海外に取って代わられ、わずか1年で深谷の生産台数は10分の1近くに落ち込んだ。
この頃に深谷の所長となった山崎は工場の存続に奔走したが、すでに勝負はついていた。
12年に深谷の生産終了を見届けると、インドネシアの工場に渡る。ただ、こちらもわずか3年で中国企業に売却された。会計不正のあおりを受けたためだ。
時を同じくして出身母体の青梅も閉鎖された。「『東芝のクローザー』。おまえが持って生まれた星だな」。ある先輩から冗談のようにかけられた言葉が、グサリと胸に突き刺さった。
敗北感を味わったのは山崎だけではないだろう。パソコン、テレビ、携帯電話。東芝の主力デジタル機器は全敗の様相を呈し、いずれの事業からも実質的に撤退した。
この時点でデジタル機器の生産に携わって34年。行き場を失いかけた山崎に思わぬ部署から声がかかった。それが水素燃料装置の工場だった。聞けば、量産の立ち上げに苦慮しているという。
中核部品である「セルスタック」という黒い膜をつくる、川崎市の工場。ここで山崎は、ずっと温めていたものづくりの形を実現しようと思った。
リアルタイムでデータをフル活用するスマート工場の構築だ。17年に燃料電池子会社(当時)の社長に就任すると、生産現場に組み込むためのロードマップを練り始めた。
「考える工場」へ
化学の要素が強い水素燃料の部品では、品質のばらつきをいかに抑えるかが最大の課題となる。
データを駆使して品質を担保する仕組みが生かしやすい領域だ。テレビでは果たせなかった「強い工場」の実現が見えた気がした。
20年ごろから工場のデータ化に着手すると2年ほどで成果が見え始めた。例えば、1回の試験で製品が合格に達する割合を表す「ワンパス率」。以前は最高83%にとどまっていたが、現在はおおむね95%前後で推移するようになった。
3月末、長く勤めた東芝を去った。青梅や深谷で培った技術を注ぎ込んだ水素燃料装置の工場は今、増強投資のただ中だ。山崎には後輩たちに託した次の構想がある。人工知能(AI)を駆使して生産ラインが自ら問題を修正できる「考える工場」の実現だ。
「東芝のクローザー」が残したものづくりの熱量は、形を変えて今日も進化する。
=敬称略
(大西綾、杉本貴司)
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