三木奎吾の住宅探訪記 2nd

北海道の住宅メディア人が住まいの過去・現在・未来を探索します。
(旧タイトル:性能とデザイン いい家大研究)

毛越寺・開山堂

2008年04月26日 07時45分10秒 | 歴史探訪
平泉に足を伸ばして、一度も見ていなかった毛越寺や
「柳の御所跡」などを見学して参りました。
ことし、平泉の一帯は世界遺産申請される予定になっています。
きっと、そのころからは大変なブームになるかも知れません。
日本史の中でも、きわめて謎の多いのが奥州の興亡史。
頼朝による軍事制圧によって、東北地方はその歴史を断ち切られたのでしょう。
その後は、関東の武権が東北地方を蹂躙してしまって、
それを背景とした鉢植え的権力がながく支配する地域になっていった。
要するに、奥州の独立性はその痕跡を含めて関東によって
歴史的に圧殺されてきて、正しい奥州の歴史が見えなくなっている。
この平泉を中心とする地域は、鎌倉幕府の正史である吾妻鏡でも
「わが国無双の伽藍なり」と記載されているように、
相当のレベルの文化を持っていたことは明らかです。

写真の毛越寺・開山堂は、慈覚大師円仁がこの寺を開いた記念施設なのだとか。
慈覚大師円仁とは、以前このブログでも触れましたが、
平安初期、新仏教として朝廷の庇護を受けた天台宗の3代座主。
唐代中国の最新文化を、苦難の大旅行の末に日本にもたらした
日本仏教史のなかの大スターなんですね。
日本で初めて「大師」号を受けた僧侶なのです。
まぁ、今の日本では比肩しようもないのですが、
日本第1級の学識者であって、朝廷権力の信頼も厚く文部科学大臣も兼務している、
みたいな存在だったのですね。
そういう人物が、この平泉地域の毛越寺や、立石寺・中尊寺などの
仏教文化施設をすべて開山したということなのです。
当時の平安朝廷にとってこの地域がいかに重要であったのか、
指し示すなによりの証拠のように思われます。
いったい、なぜここまでの傾斜を朝廷権力は奥州地域に対して見せたのでしょうか?
奈良の大仏開眼に際して発見された奥州地域の黄金が
すべての鍵と言うことになるのでしょうか。
その後の、源氏一族による異常なこの地域権力への執着。
前九年・後三年戦役を通してかいま見えるのは関東武士たちの
ぎらぎらとした欲望そのものであったと思います。
八幡太郎義家が戦争では勝利を得ながらも、朝廷権力によって
「私闘」であるとされ、結局は奥州藤原氏にこの地の権力が認定されていったのは
どのような政治的経緯によるものなのか。
いろいろな想念が沸き起こってきます。
頼朝による、先祖の復讐にも感じられる奥州征伐の様子を見れば、
いかにこの地域が魅力的なものであったか、証明もしているでしょう。

って、どうも飛び飛びになってしまいますね(笑)。
円仁さんの開山を記念した建築ということで、
見てみたら、ほかの仏閣とは壁の様式などが違っておりました。
建築様式でも、どのような系譜のものなのか興味をそそられます。
塗り壁と木とのコントラストが、寒冷地を意識した意匠なのかどうか、
よく調べてみたいと思います。
まぁ、何回か焼失してきている建物らしいのですが、
再建されてきている以上、その基本デザインは踏襲されてきたと考える方が自然。
あんまり日本の正史に登場してこないけれど、
平泉を中心とする地域って、相当、日本史に強い影響をもたらしてきたのは明らか。
さらに、大いに興味がふくらんできます。う~む。
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