写真は青森市浪岡にある古民家の縁側。
雨戸を閉じているのですが、その隙間から春の陽光が床面に透過している。
ちょっと不思議な美しさを放っていた。
わたしには、そのように感じられてなりませんでした。
高断熱高気密住宅のことを中心的に扱っている雑誌発行者ではありますが、
別にだからといって、吉田兼好の、あるいは、徒然草的な世界が
まったく嫌いだ、というようなわけではない。
先日、伝統木造のひとたちと接触したときに
こちらがわを射すくめるような視線のなかに、
このような日本的わびさび精神を全否定しているに違いない人種だ
というような断定的な光を感じたのですが(笑)
そんなことはまったくありません。
むしろ高断熱高気密住宅という日本の木造技術の進化を経て
なお、徒然草的な精神世界はどのように可能かと、
いつも考えているように思っている。
だから、こんな思いがけない素材と陽光の一瞬のふるまいに
捨てがたい美を感じて、立ち止まってしまうのを禁じ得ない。
ただ、このような戯れてくるような美におぼれるのではなく
それを科学的に捉えて、柔軟に対応していきたい。
こうした美が否定されていく、とまで捉えるのは自由だけれど、
ちょうど障子の紙が、圧倒的な現代文明によってガラスに置き換えられたように
住宅性能という技術を使って
あらたな世界のなかでの価値観を見出していくべきだと思う。
まさか、方丈記のような山奥での庵暮らしを
現代に生きるふつうの人々に説き、そのライフスタイルを強制はできないだろう。
この写真のような住宅に暮らした日本人の生き方の光景は、
いまはもちろん失われていくだろうけれど、
そこで感受した美であるとか、
心象風景での「隙間」のような空気感自体は、
つぎの空間ステージで、どのように活かしていくかと考えるべきだと思う。
木造住宅の隙間が持っていたある精神作用、
日本人的なこころのひだ、というようなものを
どんなかたちで次の世代に渡していったらいいのか、
隙間の「みえる化」のようなことが、必要だとも思えた次第です。