雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

トランプさん、伊丹空港に

2019-06-27 20:12:05 | 発想$感想

★G20に日本を訪れたトランプさん、特別待遇か、一人だけ伊丹空港に降り立った。

 その到着の瞬間をテレビ画面から写真で追っかけた。

    

  大阪上空を飛ぶ 大統領専用機

 


 7時少し前に伊丹空港に着陸




 先に同乗してたスタッフなどは後部のタラップから降りてきて、
 トランプさんは、前方から
 大統領専用車も2台 用意された。
 
 


 雨は殆ど降ってなかったが、傘を指して独りで降りてきた。


 


 出迎えたのは河野外相。





 続いて夫人も、

 


 一瞬、記者たちに挨拶。
 


 専用車2台を含む、長い車列で大阪市内のホテルに向かった。
 G20 の中でも、やはり主役、伊丹空港着はトランプさんだけの特別待遇なのか。

 因みに、安倍さんも伊丹空港着だった。
 大阪市内のホテルまでの距離が、関空よりはだいぶ短い。

 いよいよ明日開幕である。

 
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カワサキアーカイブス 私が入社したころの川崎航空機工業という会社  その1

2019-06-27 05:36:55 | カワサキワールド


★今年の2月にインタビューを受けて、私の『カワサキのアーカイブス』は始まっているのである。
膨大な当時の資料をお渡ししたものだから、それを纏めるのに4ヶ月も掛かっているのだが、その内容は見事に纏まっているのである。

 そんなデイスクの1枚に『古谷錬太郎 関連データー』というのがあって、その中には、私が提供した膨大な資料などが全て収められているのだが、

 
           

 
 
その中の一つに『私の入社したころの川崎航空機工業という会社』 という項目がある。
これは、このプロジェクトの一員としてインタビューアとして活躍された山田淳一さんが、私のブログの中から、『川崎航空機時代』を纏めて集約された労作なのである。
  一番下の資料がそれである。

      
 

★私も読んでみて、これは間違いなく私が書いたものなのだが、こんなに延々と纏めて書いた記憶もなかったので、山田さんにお聞きしたら、私のブログの幾つかの『川崎航空機時代の話』を繋ぎ合わされたようなのである。

 それが結果的には、『川崎航空機工業』という会社がどんな会社だったのか、当時をよく表しているのである。

 私は昭和32年(1957)に川崎航空機に入社したのだが、なかなかオモシロいと思うので、ちょっと連載で、私なりの感想を改めて加えながら纏めてみたいと思っている。

 『カワサキはオモシロい』と感じる方がもしおられたら、川崎航空機という会社がオモシロかったから、そうなったのだと私は思っている。
 
川崎航空機は、戦前からあった歴史のある会社なのだが、戦後軍事産業であったことから中断されてしまって、昭和27年(1952)に再開したのである。
その後、昭和44年(1969)の3社合併で川崎重工業となるまでの17年間存続した会社なのだが『カワサキの単車事業の創生期』は、川崎航空機工業籍の人たちで創り上げられたのである。

 それはどんな人たちで、どんなことをしていたのか?
 どんな会社だったのか? 

 この資料はそう言う意味では『アーカイブス』そのものなのである。

 山田淳一さんが纏めてくれた資料は16ページに亘っているのだが、それらを順次ご紹介しながら、改めて私の感想を加えていきたいと思うのである。
 まずは冒頭の2ページである。


   

★ まず、こんな書き出しで始まっているのである。
この工場は明石の西、『西明石』にあるのだが、私は元々が明石の生まれだし、小学生の頃に、伯父がやってたホテルが当時の川崎航空機の軍人たちの宿舎に徴収されたこともあって、個人的にも関係があったし、当時の川崎航空機のことも聞かされたりはしていたのである。

 どこまで確かなのかはよく解らぬが、多くの明石市民が徴用されていたし、その従業員は10万人などと言われていて、工場の道が広いのはそれくらいの巾がないと通勤に歩けなかったそうである。
 私たちが現役の頃、事務所になっていた建物を通称『二更衣』などと言っていたのだが、これは戦前の『第2更衣室』の呼び名の略で、その一事を見ても、何となく解る気がするのである。

私は財産課に配属されたので入社早々課長に連れられて会社の土地を見て回ったことがあるのだが、間違いなく今の2倍以上あったと思うし、西のほうでは当時の戦後の食糧難で、近くの住民が畑などにしていたりしてたのである。

当時の会社の経営は非常に苦しかったようで、爆撃でやられた工場の鉄骨や、土地や機械などの『売り食い』で繋いでいたりしたのである。

 こちらが2ページ目である。


 
 
 

この記事の写真にあるように工場の中の道幅はこんなに広いのである。
そして、再開された川崎航空機が定期採用者を多く採りだしたのは、私が入社した昭和32年からで、それまでの採用者はそんなに数は多くはなかったのである。

 後、アメリカ市場を開拓された浜脇洋二さんやZ1の開発責任者の大槻幸雄さんや、私と長くレースで一緒だった安藤佶郎さんなどは3年程先輩なのである。

 3年程と頼りないのは、当時のそのレベルの人たちは、旧制や新制大学とややこしかったし、長く私の上司だった髙橋鐵郎さんなどは海軍兵学校から、また大学に行かれたりしていて、上の方の歳はよく解らなかったのである。

 そんな方たちはみんな航空機に憧れて入社された方も多く、私も含めて二輪車など担当するとは全く思っていなかったのである。
 カワサキが少なくとも二輪事業をやってると認識して入社されたのは、昭和35年度以降の方たちだと思ったほうがいい。

 まずはそんな時代で当時は『ジェットエンジン』 と 『発動機の主として小型エンジン』を開発・生産していて、井関農機や、東洋工業やいすゞなどと関係があって、歯車・ミッションの納入などが主だったのである。
 二輪車のエンジンも作ってはいたが、エンジンだけを『メイハツ工業』に出荷していたのである。                   
                            (続く)

 
 
 
 
 
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