★前年、アメリカのダンピング対策のために春先から、川重本社財務の人たちも入っての国内流通網対策は、流通の経験や販社の実務が解っている人がいないために、ヤマに登ってとん挫してしまったのである。
6月に常務会を通した原案がもう一つ現実離れがしていて、秋口になって、急遽本部長から指名を受けて、その対策に掛ったのである。
常務会の原案をひっくり返して作った案は、年末に本社各部もその上部会議もクリアして、正規の計画として承認されたのである。
さらに、計画立案だけかと思っていたのに、最後になって、国内グループの常務として実質指揮を取れということになってしまったのである。
46歳、川重ではまだ課長職であったが、それまで国内400人ものグループを纏めてきたのは、故田中誠社長以下役員や理事レベルの方だったのに、無茶苦茶の若返りだったのである。
確かに社長は塚本本部長、副社長は高橋鉄郎さんなのだが、実務は一切されないので若干46歳が、国内販社の先輩方を含めて統率すると言うことになってしまったのである。
★当時のカワ販グループは、売上台数2万台弱、売上高50億円ぐらいの規模だったが、累損、含み損合わせて10億円もの赤字のある不良グループだったのである。
本家の単車事業部の業績ももう一つで、この年はずっと川重を支えてきた造船部門が造船不況で、何千人もの人員削減をしなければならぬ時期であった。
本社財務もこの国内販社問題は、独り国内だけではなく主力市場のアメリカのダンピングと密接にかかわる問題だったので、放置しておけなかったのである。
このダンピング問題の責任者は、本社財務本部長の大西常務が担当されて、毎月国内の実績を本社に報告しなければならなかったのである。
30代の初めから代理店の経営や直営営業部の経営管理など、経営の真似ごとみたいなことは何度も経験したのだが、常務という肩書で実質経営を任されたのは、初めてのことである。
不思議なもので、肩書は世の中ではそのように扱ってくれるのである。
課長の分際で毎月大西常務に報告していたし、川重関連会社の社長会にも出席したりした。
大体関連会社の社長などは、川重の役員をされて、引退をされてから付かれるような職責で、出席されているのは、みんなそんな年配の方ばかりなのである。そんな席に46歳の若造が独り交じっているのは異様であった。
カワサキオートバイ販売の主力取引銀行は、当時の協和銀行の本店取引だったのである。 銀行取引はどこの企業でもあるのだが、『本店取引』など経験のある方は、まずないと思っていい。
なぜそんなことになっているのかと言うと、メグロの取引が協和本店だったので、当時大きな問題であったメグロをカワサキが引き受けたので、そんなことで特別扱いだったのである。
そのころのことはよく知らぬが、協和の方の口ぶりでは川崎に恩義を感じておられたのは間違いなかった。そんな対応だったのである。
決算報告に行くと、協和本店の立派な応接に通されて、ホントの専務さんや、常務さんが応対に出てこられるのである。
こんな経験が、その後も誰とお会いしてもビビったりしなくなってしまった。
ずっと、年の離れたホントのエライさんと話などすることに慣れてしまったのである。
前年まで、国内の販売会社を担当されていた私のかっての上司の方たちは、何処かに行ってしまわれたのではなくて、このグループの周辺にはおられたのである。
田中誠、高岡秀明、苧野豊明、清水屋辰夫さんたち、こんな先輩たちのお相手を、昼飯だけは応接室で毎日一緒に食事のお付き合いをしていたのである。
滅多に褒めてくれない田崎さんが、 『ようやるな』 これは流石に真似できないと、感心してくれたのである。
★そんなこともあったが、肝心の、国内の経営は、全く順調極まりなく推移した。
これは、一生懸命やったこともあるが、8割はツキである。
この年4月に、バイクファンなら大体の方はお解りのFX400が市場に出たのである。
カワサキのヒット商品を3つ上げろと言われたら、誰でも、Z1, FX400, そしてZEPHRE と言うだろう。
私がツイテいると思うのは、この3機種の時期に、いずれも国内市場を担当していたのである。
そんな中でも、FX400の印象は、強烈だった。 バックオーダーが解消されずに、作りさえしたら売れたのである。
秋口には、年間の事業計画の台数は売り切って、黒字転換は勿論のこと、10億円もあった累損も、含み損も殆ど消滅してしまったのである。
大西常務に年末に、『君ら昨年、改組問題を出してきたときに、こんなになると解っていたのか?』と質問されたが、
そんなこと解っているはずもない、結果がそうなっただけの話である。まさにツイテいたのである。
あれだけ大問題であった国内問題は、1年でほぼ解消したのである。
★旧い書類の中に、この年8月に作った、本社への報告書の中の1ページである。
当時の経営環境は結構厳しかったのである。
今のような従業員の給料が殆ど変わらないような環境ではなくて、毎年人件費は上がるのに、二輪の市場だけは一定で増えない中での事業経営だったのである。
赤字からの脱出は目途がついたが、経営の安定化はなお課題であった。
この資料を見ても、ちゃんと広く見て考えてるなと、今頃バカに感心して自分で眺めたりしている。
造船不況で人員整理や、ボーナスも上がらなかった中、この年の夏、カワ販の従業員に、川重が決めてきた水準に一人3万円を勝手に上乗せして支給してオコラレタ。
億の経営改善をやっているのだから、『1000万円ぐらいは』と思っただけである。
『権限とは、その人に与えられた誤りの量である』
私はずっとそう思っているし、部下の誤りもその範囲であれば、怒ったりしたことはない。『1000万円』はその誤りの範囲と思っただけのことである。
常務と言って威張っていても、川重課長職の常務にオコレル人は明石にいっぱいいたのである。
オコラレタけど、支給してしまった後だから、『返せ』とまでは言われなかった。
別に、反省もしなかた。 結果がよければ、何とかなるものである。
★世の中は、造船不況だったが、250円もの円安で、二輪事業は結構よかったのだが、何故か本社からは、信頼が薄かったのである。
受注事業ばかりの川崎重工業で唯一民需量産事業の二輪事業は異質で、そんな経験もないものだから、二輪事業のやり方が不思議のに思えたに違いない。
例えば、ニューモデル開発に試作車を何台も作って走らせる。この部品は量産ではないからべらぼうに高いのである。
本社の人たちの目には、『高いオモチャ』を作って遊んでいるように見えるのだろう。確かに試作車が何台作ればいいのか?
船でも、電車でも、試作車など作らずに、最初から『ホンチャン』を作ると言われるのである。
ただ、毎月大西常務のところに報告に行って、いろんな話を周囲の方とも出来て、本社の方の二輪事業への理解や、特に若い連中には二輪事業への関心が出来たのも間違いない。
私自身は、業績の改善も顕著で、大いに信頼を勝ち得たのである。 ホントにツイテいた。
★夏の大会に、地元の明石南高が出場している。
中村治道さんがまだ、元気なころで、『女学校が甲子園に行くのに明高はどうなってるんや』と明石の野球部のOBの私に文句を言いに来られた。
中村さんは、明石の先輩で、あの中京―明石の25回戦を見たと言う方である。
明石南は確かに昔は女学校だったが、そのころでも明南を女学校などと言う人は少なかったので、辟易したが、如何にも中村さんらしくて懐かしい。
このころも、家のことなど見向きもしていないが、関心のあったのは息子のサッカーぐらいである。
小野高校の1年だったが、関西ユースに選ばれて、全国から集まる検見川の合宿にも参加し、1年生のベストイレブンに選ばれたりしている。
親バカで、ホントにひょっとしたらひょっとするかと、思っていたりした時期である。
自分のことでは、国内の成績がよかったこともあって、この秋10月に部長昇格になっている。
ずっと常務と呼ばれているので、別にどうともなかったが、川重の所謂第一選抜の数人の中に入っていたので、順調だったのである。
ただ、『何をやりたい』と思っている連続だが、 『何になりたい』と思ったことはホントにない。
78歳の今になっても、『やりたいこと』だけはいっぱいなのである。
昭和54年、46歳、 『まだ若いのに、エライさんばかりが相手だった』 そんな1年だった。
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