下記の記事は婦人公論.jp様のホームページからお借りして紹介します。(コピー)です。
舘ひろしさんの主演で映画化され、話題になった『終わった人』や『すぐ死ぬんだから』など、老年期に関する話題作を発表している内館牧子さん。山あり谷ありの日々を必死に過ごし、13年前からは病気とのつき合いも増え、気づけば老年期はすぐそこに──。年を重ねた女性のこれからの生き方を、内館さんはどう考えているのでしょうか
死ぬ日を指折り数えて待つ
私の知人に、年がら年中「死にたい。生きている意味がない」と嘆く人がいる。
朝早く、週に一度は彼女からメールが届く。
「死ぬ日を指折り数えて待っています。いつ死ねるのかしら。自殺すると周囲に迷惑がかかるけど、もう自殺してもいいとさえ思う。人間、死亡適齢期ってあるのよ。人生100年と言われるけど、意味なく呼吸だけする日が続くのよね」
毎回毎回、こういう内容である。
幾人かの友人は、彼女から離れた。
「あんなネガティブな人とつきあうと、それが伝染る。冗談じゃないわ」
ポジティブとかネガティブという言葉が一般的になって久しいが、かつては写真界や編集界、印刷界等々の専門用語だったのではないか。撮影した被写体が、目で見た色や明るさのままに写っているのが「ポジ」。「ネガ」は色や明るさが、実際の被写体と逆になっている画像だ。私が企業で社内報の編集をしていた昭和40年代半ばには、まだポジを「陽画」、ネガを「陰画」と呼ぶ言葉が残っていた。
「ポジティブに生きよ」と煽られても…
今は「ポジティブな生き方」とか「ポジティブ人間」とか、一般社会で当たり前に使われる。それはまさに「陽画」の名の通り、明るく前向きな志向を指す。人として、その生き方やあり方はプラスだとされ、そんな本も多く出ている。特に高齢者は、
「人間に年齢はない。何かをやろうと思った時が一番若いのだ」
「まずは動いてみよう。動かずに後悔するより、動いて後悔する方がいい」
などと言われると、力が湧く思いがするのではないか。「そうよ、死ぬまでポジティブに生きなくちゃ」とすることに、私もまったくの同感だ。
しかし、ある時にふと思った。世間は「ポジティブに生きよ」と煽ってはいるが、そこに具体性が見えない、と。「人間に年齢はない」にしても「動いて後悔する方がいい」にしても、具体的にどう考えればいいのだろう。
「ポジティブ」という言葉は、具体的ではないのにその気にさせる。使い勝手がいい。結果、乱用されて力を失った言葉ではないだろうか。「さわやか」とか「ネバー・ギブ・アップ」とか「安心安全」などに、力を感じないのと同じだ。何ら具体的でないのに、耳元を心地よく通過していく。
そこで『今度生まれたら』(講談社)という小説では、「ポジティブに生きること」を説く講演会講師を、主人公は質問攻めにする。講師は返答するものの、かなり窮してしまう。きれいごとばかりでは納得できない。
「他人にはわからない」と頑なにならないで
私は13年前、突然、心臓と血管の病気に襲われた。それまで何の兆候もなかったのにだ。2度の手術と4ヵ月間の入院で、九死に一生を得た。現在、日常生活にも仕事にもまったく困ることはない。だが、この13年間には検査や治療で短期の入退院が幾度かあり、持久力と筋力が激減した。
今も筋トレを続けているものの、加齢のせいもあって、以前にできたことが今はできなかったりする。もう情けなくて、気持がどんよりする一方。しかし、そんな毎日の中で気づいた。
ポジティブな生き方とは、現在の自分自身の状況を受け入れること。そこから何ができるかを考えること。そして、できないことへの未練は断ち切ることではないか。
世の中には様々な問題を抱える人がいるだろう。健康や介護や経済や、人間関係や家庭の問題や多種多様だと思う。そのつらさを「他人にはわからない」と頑にならず、現状を受け入れる。その中で、自分の可能性を取捨する。これは決してネガティブな生き方ではない。
シニア世代における「ポジティブな生き方」とは、「受け入れ、断ち切り、可能性を取捨する」。この流れだろう。もっとも、私も口ではそう言うものの、とてもとても到達できない。ただ、この流れがあるのだと思うだけで、気分は相当明るくなる。
舘ひろしさんの主演で映画化され、話題になった『終わった人』や『すぐ死ぬんだから』など、老年期に関する話題作を発表している内館牧子さん。山あり谷ありの日々を必死に過ごし、13年前からは病気とのつき合いも増え、気づけば老年期はすぐそこに──。年を重ねた女性のこれからの生き方を、内館さんはどう考えているのでしょうか
死ぬ日を指折り数えて待つ
私の知人に、年がら年中「死にたい。生きている意味がない」と嘆く人がいる。
朝早く、週に一度は彼女からメールが届く。
「死ぬ日を指折り数えて待っています。いつ死ねるのかしら。自殺すると周囲に迷惑がかかるけど、もう自殺してもいいとさえ思う。人間、死亡適齢期ってあるのよ。人生100年と言われるけど、意味なく呼吸だけする日が続くのよね」
毎回毎回、こういう内容である。
幾人かの友人は、彼女から離れた。
「あんなネガティブな人とつきあうと、それが伝染る。冗談じゃないわ」
ポジティブとかネガティブという言葉が一般的になって久しいが、かつては写真界や編集界、印刷界等々の専門用語だったのではないか。撮影した被写体が、目で見た色や明るさのままに写っているのが「ポジ」。「ネガ」は色や明るさが、実際の被写体と逆になっている画像だ。私が企業で社内報の編集をしていた昭和40年代半ばには、まだポジを「陽画」、ネガを「陰画」と呼ぶ言葉が残っていた。
「ポジティブに生きよ」と煽られても…
今は「ポジティブな生き方」とか「ポジティブ人間」とか、一般社会で当たり前に使われる。それはまさに「陽画」の名の通り、明るく前向きな志向を指す。人として、その生き方やあり方はプラスだとされ、そんな本も多く出ている。特に高齢者は、
「人間に年齢はない。何かをやろうと思った時が一番若いのだ」
「まずは動いてみよう。動かずに後悔するより、動いて後悔する方がいい」
などと言われると、力が湧く思いがするのではないか。「そうよ、死ぬまでポジティブに生きなくちゃ」とすることに、私もまったくの同感だ。
しかし、ある時にふと思った。世間は「ポジティブに生きよ」と煽ってはいるが、そこに具体性が見えない、と。「人間に年齢はない」にしても「動いて後悔する方がいい」にしても、具体的にどう考えればいいのだろう。
「ポジティブ」という言葉は、具体的ではないのにその気にさせる。使い勝手がいい。結果、乱用されて力を失った言葉ではないだろうか。「さわやか」とか「ネバー・ギブ・アップ」とか「安心安全」などに、力を感じないのと同じだ。何ら具体的でないのに、耳元を心地よく通過していく。
そこで『今度生まれたら』(講談社)という小説では、「ポジティブに生きること」を説く講演会講師を、主人公は質問攻めにする。講師は返答するものの、かなり窮してしまう。きれいごとばかりでは納得できない。
「他人にはわからない」と頑なにならないで
私は13年前、突然、心臓と血管の病気に襲われた。それまで何の兆候もなかったのにだ。2度の手術と4ヵ月間の入院で、九死に一生を得た。現在、日常生活にも仕事にもまったく困ることはない。だが、この13年間には検査や治療で短期の入退院が幾度かあり、持久力と筋力が激減した。
今も筋トレを続けているものの、加齢のせいもあって、以前にできたことが今はできなかったりする。もう情けなくて、気持がどんよりする一方。しかし、そんな毎日の中で気づいた。
ポジティブな生き方とは、現在の自分自身の状況を受け入れること。そこから何ができるかを考えること。そして、できないことへの未練は断ち切ることではないか。
世の中には様々な問題を抱える人がいるだろう。健康や介護や経済や、人間関係や家庭の問題や多種多様だと思う。そのつらさを「他人にはわからない」と頑にならず、現状を受け入れる。その中で、自分の可能性を取捨する。これは決してネガティブな生き方ではない。
シニア世代における「ポジティブな生き方」とは、「受け入れ、断ち切り、可能性を取捨する」。この流れだろう。もっとも、私も口ではそう言うものの、とてもとても到達できない。ただ、この流れがあるのだと思うだけで、気分は相当明るくなる。
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