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10月21日(土)~22日(日)  妙円寺詣り  /  島津義弘に学ぶ-「島津の退き口」

2017-10-20 00:00:32 | 鹿児島の祭り・イベント

 

妙円寺詣り2015 part1

 

 

  10月21日(土)~22日(日)  妙円寺詣り行事大会 

 例年 妙円寺詣りは,10月の第4土から日曜日にかけて行われています。武者行列や郷土芸能が披露され,多くの市民らが参加します。その起源は,1600年の関ケ原の戦いで敗れた島津義弘が敵陣を中央突破して帰郷した勇猛さをたたえ,鹿児島城下の武士が義弘の菩提(ぼだい)寺の妙円寺(現在の徳重神社)まで往復40キロを歩いたのが起源とされます。
 昨年は,関ケ原町と兄弟都市盟約50周年記念事業により,関ケ原鉄砲隊による演武が披露されました。


・場所 : 徳重神社日置市伊集院町徳重1786 ‎ (JR伊集院駅から徒歩5分)
・駐車場 : 1000台(無料)


◆「第64回妙円寺詣り行事大会実施要項」    http://www.city.hioki.kagoshima.jp
 
趣 旨: 郷土の誇る歴史的伝統美風の伝承を図るとともに,スポーツを通して県民(市民)の健康・体力づくりに貢献し,ぬくもりと活力に満ちたまちづくりの輪を広げる。
期 日: 2017年10月22日(日)
 〔奉納行事は,10月21日(土)〕 空手道競技は, 年 月 日( )伊集院総合体育館で開催
会 場
 弓道,相撲競技:徳重神社内
 剣道競技:伊集院総合体育館
 柔道競技:伊集院小学校体育館
 銃剣道競技:伊集院武道館
 ゲートボール競技:伊集院総合運動公園チェスト小鶴ドーム及び日置市伊集院
奉納行事 10月21日(土)
 ア 徳重太鼓踊り(鹿児島県指定無形文化財) 13:30~14:00 保存会

 イ 伊作田踊り 14:00~14:30 保存会 

 ウ 吉利北区太鼓踊り 14:30~15:00 保存会 

 エ 伊作太鼓踊り(鹿児島県指定無形文化財) 15:00~15:30 保存会

 オ 妙円寺詣りの歌暗唱披露 15:30~15:50 児童生徒 

 カ 大田太鼓踊り(鹿児島県指定無形文化財) 15:50~16:20 保存会 

 キ 薬丸野太刀自顕流 16:20~16:50保存会


武者行列参拝
 (1) 10月21日(土)
  ・ 鹿児島市学舎連合会  17:25~18:00
  ・ 伊集院町妙円寺詣り武者行列保存会  18:00~19:00
 (2) 10月22日(日)
  ・ 美山少年隊 13:30~14:00
  ・ 伊集院町妙円寺詣り武者行列保存会 14:30~15:00
  ・ 永吉南郷会 16:30~16:50
  ・ 日置責善舎 16:50~17:10
  ・ 吉利妙円寺詣り保存会 17:10~17:30
  ・ 市来猶興舎 17:30~17:50


妙円寺詣りの歌
                   作詞 池上 真澄 作曲 佐藤 茂助
明くれど閉ざす 雲暗く 薄(すすき)かるかや そよがせて
嵐はさっと 吹き渡り 万馬(ばんば)いななく 声高し

銃雷(つついかずち)ととどろけば 太刀稲妻ときらめきつ
天下分けの たたかひは 今や開けぬ 関ヶ原

石田しきりに促せど更に動かぬ島津勢
占むる小池の陣営に鉄甲堅くよろうなり

名だたる敵の井伊本多 霧にまぎれて寄せ来るや
我が昌巌(しょうがん)ら待ち伏せて  縦横無尽にかけ散らす

*1600年の関ケ原の戦いで敗れた薩摩藩 島津義弘が敵陣を中央突破して帰郷した勇猛は,今もたたえられている。

  「妙円寺詣り」は,関ヶ原の戦いで豊臣方として闘った島津勢が,徳川方の敵中を突破して帰還を果たしたことから,鹿児島城下の武士たちが往時の苦難を偲び,妙円寺へ参拝するようになったことに始まる。

 島津隊は退路を遮断され敵中に孤立することになってしまった。この時,義弘は覚悟を決めて切腹しようとしていたが,甥の豊久の説得を受けて翻意し,敗走す る宇喜多隊や小西隊の残兵が島津隊内に入り込もうとするのを銃口を向けて追い払い自軍の秩序を守る一方で,正面の伊勢街道からの撤退を目指して前方の敵の 大軍の中を突破することを決意する。島津軍は先陣を豊久,右備を山田有栄,本陣を義弘という陣立で突撃を開始した。

 島津隊は東軍の前衛部隊である福島正則隊を突破する。このとき正則は死兵と化した島津軍に逆らう愚を悟って無理な追走を家臣に禁じたが,福島正之は追撃して豊久と激戦を繰り広げた。その後,島津軍は家康の本陣に迫ったところで転進,伊勢街道をひたすら南下した。この逃走劇に対して井伊直政,本多忠勝,松平忠吉らが追撃したが, 追撃隊の大将だった直政は重傷を負い忠吉も負傷した(直政はこのとき受けた傷がもとで後年病に倒れ,死去したとされている。また忠吉が負傷したのは開戦当初とする説もある)。しかし,戦場から離脱しようとする島津軍を徳川軍は執拗に追撃し続けた。

 このとき島津軍は捨て奸と言われる,何人かずつが留まって死ぬまで敵の足止めをし,それが全滅するとまた新しい足止め隊を残すという壮絶な戦法を用いた。その結果,甥・豊久や義弘の家老・長寿院盛 淳らが義弘の身代わりとなり多くの将兵も犠牲になったが,後に「小返しの五本鑓」と称される者たちの奮戦もあり,井伊直政や松平忠吉の負傷によって東軍の追撃の速度が緩んだことや,家康から追撃中止の命が出されたこともあって,義弘自身はかろうじて敵中突破に成功した。

 義弘は摂津住吉に逃れていた妻を救出し,立花宗茂らと合流,共に海路から薩摩に逃れたという。生きて薩摩に戻ったのは,300人のうちわずか80数名だったといわれる。また,その一方で川上 忠兄を家康の陣に,伊勢貞成を長束正家の陣に派遣し撤退の挨拶を行わせている。この退却戦は「島津の退き口」と呼ばれ全国に名を轟かせた。
                       出典:  ウィキペディア http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E7%BE%A9%E5%BC%98

徳重神社は明治2年(1869)の廃仏毀釈によって壊された妙円寺跡に島津義弘公を祭神として建立された。その後,義弘公の菩提寺である妙円寺(法智山妙円寺)は神社の西側に復興されている。


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