rock_et_nothing

アートやねこ、本に映画に星と花たち、気の赴くままに日々書き連ねていきます。

本が遠のいていく、老いというもの

2017-02-18 23:43:02 | 本たち
老眼となって、ちょっとした合間に本を手に取ることが難しくなった。
エッセーとか短編はいつも数冊用意して、本腰入れて読書に取り掛からずとも、いつも本は私と共にあった。
いまも私を待つ本が、そこここで手招きしている。
先ほどインフルエンザで療養しているときも、ガルシア・マルケスの「エレンディラ」の呼びかけに、私は応じることができなかった。
確かに気がかりなことをいくつか抱えていて、心に余裕が無い。
けれども、結局のところ、自分の老化に負けているのだ。
メガネが合わないとか、かけ慣れないとかの理由など、取るに足らない。
老いは、体ばかりではなく、心にも確実に及んでいる。
「まさか、自分がこうなるとは思っていなかった」と陳腐な言い訳をしてしまう。
だから、私はそんな自分に抗っていこう。
できるだけ、本と離れないでいよう。
古き友である本、これからもずっと一緒に私と歩んでおくれ。

勝手に”東京喰種”考察

2016-09-29 22:50:47 | 本たち
リアルに喰種(グール)は、世界に存在する。
人を食べてしか生きられないグール、そうだ、誰も彼もグールなのだ。
この本から聞こえてくるのは、心の叫び。
 -一人ぼっちは辛い。
 -生きていちゃいけないんだ。・・・でも死にたくない。
 -存在していいのでしょう?
 -誰かのためになりたい。
 -傍にいて欲しい。
 -望んではいけないんだ。
 -愛されたい。
 -認めて欲しい。
 -自分の本当を知りたくない。
 -でも・・・生きたい。
だから、人を喰らう、自分を喰らう。
普通の食べ物では、決して満たされない飢えがある。

はじめ、この漫画はサイコホラーで、過激な刺激を狙ったものだと思っていた。
たしかに、カニバリズムの嗜好性を持った人が存在するけれど、潜在するその嗜好性を発露させるトリガーにならないとは断言できない。
しかし、読み進めるにしたがって、もっと厳しく寂しい印象が湧き上がってきたのだ。
今自分が身を置く場所では、飢えに苦しむ小さなグールたちの姿がある。
己が子を喰らい続けるグールの姿が、ちらちらと垣間見える。
目には見えない凄惨なことが、日々起こっている。
昔もグールはいたけれど、その数は徐々に増しているように思われる。
何がいけないのか?
それは、生きている感覚が希薄だから。
一見人は地上の覇者となり、何の危機感もなく生きられるようになったこの社会だが、それが仇をなすなんとも皮肉な状態だ。
人の中に内包された破壊衝動が、消滅または制御できることはないけれど、
暴走させるままにするのは、自殺行為に等しい。

血にまみれた自分の罪を意識した者が控えめになり、孤独と罪と悔恨にもがき足掻きながら向き合った者に希望が託される・・・現実には望めそうにもない。

自分は、ほぼ傍観者でしかいられない状況だが、罪深き一グールとして、ほかの人々が他を貪り食うことがないよう、ただただ祈ることしか出来ないでいる。

ディケンズ「大いなる遺産」

2016-09-12 22:12:19 | 本たち
本当の遺産とは、どれだけ真の愛を受けたかによるのではないか。
たしかにお金があって経済的に恵まれることは、余裕が生まれ人は穏やかになれそうでもある。
日々の生活の糧にもこと欠くならば、自然と心はぎすぎすとし、貧しさが人を蝕むのはよく聞くところだ。
しかし、持てる者でもその欲の止まるところを知らず、財はさらに財を欲するのも周知の事実だ。

親を失った子供の悲惨さは世界共通、たとえ血の繋がった縁者がいても、平穏は保障されない。
愛も与えられず、教育などはさらに受けられるはずもない。
飢えた器は、渇望が常態化して、自らも他者も傷つけていく。
でも、ほんの一滴でも愛が与えられたなら、希望の光はその干からびた心に届き、人生を大切に歩めるかもしれない。

この物語の登場人物は、悲しく哀れで愛を切望する者たちだ。
本当の愛は、なかなかに得ることが出来なく、ましてや金で買うことなど出来ない。
どう信じるかは、人それぞれだけれども。


”草の竪琴”  流れの中で

2016-08-27 23:10:25 | 本たち
トルーマン・カポーティのもっとも繊細で大切なものがぎっしりと詰まった「草の竪琴」は、読書中よりも読書後にじんわりひたひたと心に柔らかな温かい水が満ちてくる。
気がつけば、その水は眼球を覆いやがて零れ落ちようとするのだ。
子供の頃の寄る辺なさ、居心地のよい部屋の隅、不思議なものも簡単に受け入れられる曖昧な世界の住人だった。
もう決して戻ることができない切なく甘い時を、カポーティは両手でそっとすくい出す。
私は、自分にもある心の一番奥にある柔らかいところをカポーティによってすくわれ、心に大きな虚が開きやるせない喪失感に囚われながらも、じわりとしみ出る薄緑の温かな水を感じては、廻り行く時と命に打ち震えた。

生まれた瞬間産み付けられる孤独の卵を抱え、人は生きていく。
孤独はいつ孵化するかそれは個人差があり、どれだけ成長するかも同様だ。
放っておくと孤独はどんどん成長し、ついには人を飲み込んでしまうけれど、人は寄り添うことで孤独の成長を抑えていくのだ。
寄り添うとは、あるがままに人を受け入れる愛のこと。
それがたとえ一瞬であったとしても、孤独に飲み込まれない特効薬となり得る。
その思いは、終生その人の心に柔らかな調べをもたらすから。

水も調べも流れを伴う。
全ては流れ行き去っていく。
人も孤独も全て皆。

レイモンド・カーヴァー短編集「ささやかだけれど役に立つこと」

2015-09-27 12:41:05 | 本たち
人生の、何気ない一場面を切り取ることで、生きるということのすべてを語ってしまう、まるで哲学書のような作品を作ったレイモンド・カーヴァー。
多くの言葉、量を弄さなくとも、確実に読み手へ伝えることができる手腕は、そう滅多に持てるものじゃない。
人の愚かさや悲しみを描きこむことで、それを包み込む大いなる慈愛を感じさせ、「ちっぽけでクソったれな自分の人生」を諦めずに続けようという気持ちに導く力を持っているように思われる。
すべての人が孤独であり、敗者なのだ。
それでも、宇宙に浮かぶ小さな星のように孤独ではあっても、何かの力によって引き寄せられ大きな軌道を描いてめぐり、完全な孤独はありえない、バランスの一端を担っているのだ。
たとえ生まれてすぐに虫けらのように殺されたとしても、無ではなかったと。
無も全も同じだとしてもだ。
生きて感じ、考えられるということは、肯定すべきよきことなのかも知れない。
レイモンド・カーヴァーは、こんな愚かな私にさえ、哲学する楽しさを教えてくれる。
しばらくたって、再びこの短編集を手に取ろう。
今と違った思いをもたらしてくれそうな予感がするから。