rock_et_nothing

アートやねこ、本に映画に星と花たち、気の赴くままに日々書き連ねていきます。

My Favorite Gallery - Second

2024-01-08 22:17:41 | モノたち


どこに飾ろうか考えていた中くらいの人のチョウの絵を飾る。
その右隣に在る作品は、私と家人に共通の知人の作品。
このコーナーも、これでうまく納まり、とてもいい空間になった。
これを機会に、ずっと飾りっぱなしだった額縁のほこりを落とし、ガラスを磨き、つり紐が劣化していないかを確かめた。
ここ数年、気にしながらも余裕がなさ過ぎて、放置していたのだ。
自分のお気に入りの空間といいながら、なんとも情けない話。
作品たちに詫びを入れながら、丁寧に掃除ができたと思う。
やっと後ろめたい気持ちもなくなって、このギャラリーを満喫しようではないか。

My Favorite Gallery

2024-01-07 22:45:27 | モノたち


我が家の階段は、ちょっとしたギャラリーとなっている。
私のお気に入りの絵画やオブジェが、飾ってあるのだ。
右にある黒い絵は、ルーブル美術館監修のマティスのリトグラフ。
真ん中の風景画は、知人の油絵。
左上の小さな絵は、中くらいの人の描いたペン画。
毎日階段の昇り降りのたびに目に触れて、私の心は癒される。
今も、新しくやってきた中くらいの人の絵と私のドラゴンを、どこに飾ろうかと考え中。
こうして好きなものに囲まれ暮らす幸せ気分を、ありがたく享受している。

イッタラの器

2022-09-18 23:22:04 | モノたち


この場合の主人公は、フルーツヨーグルトではなくてその器となる。
器だけを写していない理由は、この器の贈り主に使っている様子を届けたかったからだ。
私の試験合格祝いにと、弟がこのイッタラのガラスボウルを贈ってくれた。
フィンランドの食器メーカーであるイッタラの食器を、元小さい人と私は密かに憧れていて、当然、このガラスボウルも既に見知っていた。
それを弟に話した覚えはないから、まったくの偶然で我が家へやってきたというわけだ。
シンプルなデザインで大きさも使い勝手よく、毎朝のヨーグルトばかりではなく、サラダなども涼やかに、毎日の食事を美しく演出してくれる心強い味方になるだろう。
元小さい人にそのことを話したら、帰省したときの楽しみの一つと期待していた。
食器が結ぶ家族の思い出が、これから始まる。

追記:折りしもイッタラの展覧会が、東京渋谷のBunkamuraザ・ミュージアムで9/17~11/10まで開かれているそうな。
元小さい人は、既にこの情報を得ていて、展覧会に行きたいといっていた。
東京国立博物館開館150年記念展と併せて、美に触れてこようと計画を立てているところ。



美しい車

2022-08-28 22:56:30 | モノたち

ロータスヨーロッパ スペシャル

私の試験のために、いろいろ協力してくれた家人にも気分転換が必要だった。
神頼みっぱなしでは恐れ多いので、一昨日にお礼と報告も兼ねて鹿島神宮と息栖神社へ参拝しに行った。
そのあと、家人の大好きなスーパーカーを展示してあるサーキットの狼ミュージアムへ足を延ばした。
そんなに遠い場所ではないけれど、なかなか訪れる機会を作れないでいた。
とうとう展示スペースに足を踏み入れられた家人は、スーパーカーと同じ空間にいる喜びでもうすっかり少年のような面持ちだ。
家人は、憧れ続けたランボルギーニーミウラ、ランボルギーニーカウンタック、ランチャストラトス、マセラッティカムシンを間近で見て、その隣で写真に納まり、私に説明をして、大いに楽しんでいた。
車好きにもいろんなタイプがあるが、家人はそのスペックよりも、ひたすら造形を重視するタイプだ。
それは、絵を描いている性なのだろうか、私にも共感できるところだ。
私が好きな車は、エレガントな形の車で、特にここに挙げた3車種だ。
自分が運転する、同乗するというイメージはなく、ただ美しい車と感じている。
車は実用品といえるけれど、実用品には機能美と実用を超えた美しさが宿ることがある。
この3車種は、それに当たると思うのだ。
最近の車には、美しいと感じるものにお目にかかれない。
衝突安全性やコスト重視など制約が多いのかもしれないが、後世に残る美しい車、名車が登場するのはもうないのであろうか。
自動車産業が厳しい時代になってきていても、ただ用途を果たすだけのもので終始しする、そっけないものになって欲しくない。
美は、人の生活に潤いを与えるものと思えるからだ。


日産 パンサー


スバル360


そろそろお別れのガラケー

2021-12-27 23:49:50 | モノたち
2026年を待たずして、ガラケーからスマホへと変えなくてはいけなくなった。
使っている二つ折り携帯電話が壊れたのではなく、今のネットワーク事情から弾かれすぎて、やむなくスマートフォンにならざるを得なかったのだ。
それに伴い、ガラケーのデータを見返していると、10年以上も前の写真が入っていた。
あのバカねこちゃんの丸々と元気な姿や、幼かった子供たち、もちろん自分や家人もあり、しばしの間思い出に浸る。
そう考えると、良くぞ永きに渡りこの携帯電話を使ってきたものだ。
バッテリーもまだそんなに弱ってはいないし、さすがにカメラのレンズ部分は摩擦で曇り機能しないが、まだまだ使えそう、2026年までもいけそうだ。
今のスマホに慣れた人たちには何かと不便であろうが、用途を通話とメールに限っているから、頻繁に携帯電話を気にしなくて良いし、なにより洪水のごとく押し寄せる情報の波を物理的に制限できるところが良い。
家にいるとWi-Fiがありいつでもネットにアクセスできる環境にあると、ついついモバイルを手にする機会が増えてしまう。
ふと冷静になって思うと、ずいぶんとモバイルなどのネット世界に時間を費やしていて、すべての時間が無益ではなくても、何かしら大切なもの、時間と自分の頭と心で考え感じることが減るのではないかということ。
便利なものが身近にあり利用できるのは素晴らしいけれど、すべてそれに委ね頼ったり、ついには隷属するようなことになっては、道具が自らを損なう凶器となってしまう。
いついかなるときにも、そのものの持つ利点と弊害を評価して、主体的に扱う冷静な姿勢が問われているのだ。
とても難しいことではあるが、これからそこがより重要になるであろう。
物事を俯瞰的に見て判断を養う機会は、こんな些細なことにも存在するのだと、振り返りの時間を持てた日だった。
そしてアニミズム的に、10年以上共にいたSH705iⅡ感謝したい。