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クレーは、几帳面。
自分で作品目録を作っている。
クレーは、研究者。
貪欲に絵画の実験を試みている。
クレーは、批評家。
自分の絵を冷徹に客観視している。
クレーは、ロマンチスト。
色と線で、絵画に詩情と音楽を乗せている。
クレーは、採掘者。
ひとり色彩の結晶を採り出している。
梅雨明け宣言を受けて、太陽はおおっぴらに照り付けていた。
灼熱の東京。
蒸発しそうな人間に命を吹き込んでくれたのは、気まぐれな風だ。
そんななか、「パウル・クレー:おわらないアトリエ」展へ向かった。
小さい人を連れて。
左手に皇居を眺め、竹橋を渡った。
開館まもなくで、人はまばらだった。
会場に足を踏み入れ、人々がまだ余り到達していないブースへと、ずんずん進んでいった。
壁には、小さいけれど言い様のない光のオーラを発している作品が、慎ましく、しかし圧倒的存在感を持ってそこにいた。
小さい人は、先日「美の巨人たち」で紹介された”襲われた場所”をその目で確かめたいと、一人飛んでいってしまった。
ときどき舞い戻ってきては、その絵があったとか、ほかにも気に入った絵があるから一緒に来てなどと囀っている。
クレーの絵は、小さな心に直接話しかけることばを持っているようだ。
だから、小さな人は自分と同じ部分を認めて、「コレナラ、アタシニモ カケルヨ」などと、本気で思ってしまうのだ。
たしかに、そう、子供にしか描けない絵は存在する。
親バカかも知れないが、現に小さい人は2年位前に、マティスも驚くほどのデッサンを描いた。
でもこれは、稀に訪れる神の恩寵の一つの現れに過ぎない。
意図して人間が描くには、なかなか成しえない領域なのだ。
クレーは、この稀有な技を表せた一人。
見えるけれど、あるけれど、なかなか掘り当てられない坑道を見出し、そこから線と色彩を使って見事な結晶(鉱物)を採掘した。
”幻想的なフローラ”は、紫外線を当てると他の色に発光するフローライト(蛍石)のように、幾重にも異なった複雑な光を内包している。
”首を傾けた婦人”は、まさにオレンジの透明な輝きを放つタンジェリン・クオーツ(蜜柑水晶)そのものの、光の結晶になっている。
本物さながらの二次元化が絵画の役割を終えた今、目に見えない至高(思考)の美を採り出すのが、画家の役目となった。
クレーは、ひとり山に篭り神と対話する隠者の如くに、スイスのベルンのアトリエで、小さな宝石たちを採掘していたのだろう。
クレーの小さな絵を目の前にして、その大きさと奥の深さに打ちのめされてしまった。
ここまで圧縮した絵画は、ほかにあるものだろうか?
一見やりつくされてしまった芸術の世界、まだまだ開拓できる余地があるのかもしれないと思った、クレーの啓示であった。
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