「人の12ヶ月と天の12宮」
「二月、冬の農家」
時禱書(じとうしょ)-聖職者ではない俗人(高貴な身分)のお祈りのテキストとして作られる書物
豪華絢爛、精緻の極みである時禱書や写本の類を眺めていると、時間が経つのを忘れてしまう。
もちろん、本物は手に入らないし、実物を目にできる機会も巡ってはこない。
「ベリー候のいとも華麗なる時禱書」のファクシミリ版を、20年近く前に思い切って買った、それを白い手袋こそはめないが、貴重品を扱うように丁寧に見る。
または、他の時禱書や写本の作品を紹介している雑誌の特集号などを気軽に眺める。
キリスト教のお祈りのテキストなのだから、聖書の教えやエピソードが記されているのだが、そのモチーフに中世の風俗を織り交ぜて描いている。
写本や時禱書の注文主は、王侯貴族や豪商たち。
当時の本の素材は、動物の皮を薄くなめしたもので羊皮紙や牛皮紙と、土や鉱物を粉末にした顔料、そして金箔・金泥と、いずれも高価なものばかり。
しかも、加工に気の遠くなるような手間と時間がかかる、いわば本の宝石だ。
ロシア・ロマノフ王朝のインペリアル・イースターエッグのように、莫大な富と権力を手にした者が虚栄心を満たすために作らせたり所有したりするため、存在する物たち。
おかげで、美術工芸の至宝が誕生して、その美を楽しむ機会が得られた。
悲しいかな、芸術は、平等の世界には、格差のない世界には、存在し難いのだろうか。
芸術家は、大パトロンに庇護されないと、突出した作品を創れないのか。
一個人が、自力で生活をして創造するには、時間と経済の負担で磨り減ってしまう。
だから、個人規模を出ない創造物が生み出される結果につながる。
たとえ、幸運にもパトロンにめぐり会えたとしても、どの程度の恩恵があるのか、残念ながら窺い知る機会を得ない。
時禱書の華麗な世界を眺めていたのに、話が随分と俗な方に振れてしまった。
「ベリー候の・・・」の作者、ランブール兄弟は、現在のベルギー・ブリュージュで活躍していた。
また、この時禱書、フランスのシャンティイ、コンデ美術館に収蔵されている。
ブリュージュは、2度ほど訪れ、この街に縁のある愛好する作家たちがあったり、中世の面影を色濃く残す街がとても好きだ。(近年、ユーロ高で彼の地もバブルにあい、街並みがやたらと綺麗になっていたが・・・)
コンデ美術館を訪れたとき、この貴重な本は展示されていなく、いささか落胆したが、ピエロ・ディ・コシモの「シモネッタ・ヴェスプッチの肖像」が観られて感激した。
勝手な思い込み炸裂といった具合だが、「ベリー候の・・・」には、強い縁を感じる。
時禱書なのに、自らの煩悩を活気して止まないのは、なんとも皮肉、申し訳ない気分だ。
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