rock_et_nothing

アートやねこ、本に映画に星と花たち、気の赴くままに日々書き連ねていきます。

絵画の死、滅び行く美術団体

2014-03-03 15:12:14 | アート
大きな流れが生じなくなって平面のアートシーンが低迷し、かれこれ30年になるだろうか、世界的に見ても絵画は死んでしまったという確信が増してくる昨今、美術団体は存亡の危機に立っている。
中央の巨大団体も、実情はさほど変わりないのではないかと推測している。
地方の弱小団体、戦後、自由な芸術活動を掲げ生き生きと活動できた時代も終焉。
少子高齢化で、新たな世代の芸術を模索する美の求道者が少なくなり、したがって地方の美術団体に参加するものが激減、皆無となってしまった。
会の構成員は、団塊の世代以降のバブル世代も不景気のあおりを受けて、生活以外のことに時間と資金を費やすことができないのかがくんと減り、さらに40台未満となればその姿は見られない。
もう会という存在意義が消滅する瀬戸際だ。
美術の様相が変わるのは時代の流れで当たり前で、キャンバスや紙に絵の具で表現する変わりにコンピューターで立体的かつ動き音なども追加できるメディアの誕生は、平面や立体と区別を持たない手法にアーティストのイマジネーションをより解放させた。
マンガが芸術と文学の一員として認められてきたように、アニメーションも立派な芸術の市民権を獲得できたのは、以前絵画や彫刻、詩人などに向かっていた才能が向かうところを変えたからだと考える。
もはや絵画は生きた化石なのだ。
自我自己顕示欲の強い芸術家が、野望も抱かずおとなしく霞を食らって絵を描いていられるなど笑止千万。
自分の力量を誇示したくてうずうずしているのだあえて制約の多く地味なメディアに向かわなくてもいい。
それになんといっても、需要が少なく、よほどのことがない限り、絵で飯を食えるまでにはなれない。
マスメディアを媒体とするマンガやアニメは、当てたときの経済的恩恵は絵画の比ではないと思うので。
美を信奉し殉ずることができるのも、なにかしらで食べていけるてだてがある場合。
その団体の大きさ如何に係わらず、立ち枯れに瀕しているのではないか。
窓ガラスの割れ落ちた巨大な廃墟が、影のように美術界に聳え立っているようすが見える気がしている。

紫煙と思索と創作

2014-03-02 16:13:38 | つぶやき&ぼやき
喫煙権から嫌煙権へと世の流れは移ろって。
開高健のエッセイ集「地球はグラスのふちを回る」は、いわゆる滑稽洒脱な大人の読み物だ。
タイトル通り、酒に関する話題も多いが、煙草について書かれたものについて採り上げたい。

私は、煙草を一切吸わない。
若いとき、1度や2度ふかしてみたがそれきりで、狭い空間で煙草を吸われると辟易するどちらかといえば嫌煙家だ。
家人は煙草を吸うので、煙草のにおいが染み付いた彼の部屋に行くのも気が向かないし、衣類にもうんざりしてしまう。
しかし、どこ構わず吸うわけではないので、そこから先は個人の趣味嗜好をとやかく言いたくない。
今から30年前はまだ、煙草が大腕を振ってまかり通っていた。
レストランでも禁煙席を設けているところは稀。
それが、アメリカあたりから喫煙者は健康軽視だけでなく公害を撒き散らす悪者として弾圧される風潮が広まり、デカダンスが生まれし彼のフランスでさえも公共の場では禁煙とするまでになって、偏った健康意識が世界に蔓延してしまった。
まだ煙草を迫害する風潮は緩まることがないようで、ヒステリックな様相を呈している。
たしかに、病気や子供、妊婦にいいことはないし、喫煙に割く時間が生産の作業効率を下げるかもしれない。
でも、人は完全な機械ではない。
場合によっては喫煙というリラックスを必要とする。
また、煙草を一服という作業などをいったん中止してする行為が、冷静さをアイディアをもたらす場合もありえることを考えてみよう。
喫煙者でないならば、一杯のお茶、手を止めて窓の外を見、戸外の空気を吸いながら姿勢を正すこともいいだろう。
開高健は、煙草はそのくゆる煙を目で見ることに大きな価値をもつといっている。
あのゆらゆらと揺れながら立ち昇り消えていく煙には、何か人の思考にも似て通じるものがあると思わないか。
どこかいい加減さと緩み、寛容性がなくなっては、この世は不毛地帯になってしまう。
健康第一というならば、煙草を目の敵にするには小物過ぎやしないか。
殺虫剤、工場の廃液、食品添加物、我々を取り巻く健康に害をなす物質は煙草の比ではないと思うのだが。
野放しの喫煙権が失われ、嫌煙権が確立した今、両者歩み寄りとなって欲しい。
自分の主義主張、権利を声高に叫び振りかざすのは、成熟した文明文化を持つ者のすることではないだろう。

開高健が今生きていたなら、時が経っても人の精神的成熟は進むどころか退化してきていると嘆く姿が目に浮かぶ。
そういえば、宮崎駿の映画「風たちぬ」のシーンに煙草を吸うところがあって、嫌煙家たちがクレームをつけたとかあったらしいが、やれやれと思ったしだいである。

憧れのグラハム・カー『世界の料理ショー』

2014-03-01 23:25:06 | 食べ物たち
子供の頃、テレビで放送していた料理番組『世界の料理ショー』を見るのが大好きだった。
途切れることのない軽妙なおしゃべりをしながら料理をするグラハム・カーに憧れ、最後にスタジオの来場者の中から一人だけ出来立ての料理を味わえるその栄誉に与りたいと夢見ながら。
見たことすらない料理の数々、馴染みのない素材、魔法薬のような調味料、ミキサーやオーブンという器具、未知の世界が開けている。
『兼高かおる世界の旅』を見ていたときぐらい集中し、小さな頭の中身をフル回転させて理解吸収しようとしていた。
グラハム・カーが料理をするとき必ずやることに、ワインを飲みながらというのがある。
お酒を飲みながら料理をするという行為が、子供心に不謹慎と感じつつ、しかし料理が仕方なしの仕事ではなく食を楽しむ大人の余裕を見た気もして、自分もいつかはそうしようと密かに誓っていたのだ。
そして今、たびたびグラスにワインを注いでは、料理しながら飲んでいる。
もちろん気分はグラハム・カー。
好きな音楽だって流してある。
毎度の食事の支度が気分よく楽しくできるわけではないけれど、作ることも食べることも積極的に楽しまなくては、人生が無味乾燥になってしまう。
だからこそグラハム・カーの精神でざっくりゆったりやりたい。
そうすれば、自ずと料理も美味しくできるはず。
先日弟からメールがあった。
「チリワインの赤を飲みながら、ビーフシチューを作っています。」
グラハム・カーを知らなくても、その流れは別の支流へと伝わったようで、ほくそ笑んでしまった。