rock_et_nothing

アートやねこ、本に映画に星と花たち、気の赴くままに日々書き連ねていきます。

歴史に刻み込まれる、この災厄

2020-03-31 23:26:01 | 雑記または覚書
このブログには、あまり不安や憤りを綴りたくはないのだけれど、あえて危惧を記したい。
この新型コロナウイルスが、これほど世界中に蔓延してしまったのは、人間の驕りのためだろう。
過剰に怯えずとも、十分に警戒を持ってあたらなくてはならなかった。
またさらに、不穏な様相を呈したきたときに、まずは予防を入念に行う手立てを講ずべきだった。
どこかの国に生産の依存をせず、自国でまかなわなくては、世界規模で感染爆発したときに流通が細くなり途絶える予想はたやすい。
予防は第一、次に医療関係品、食品、エネルギー、あらゆるものが国外に依存している。
おっと、労働力もだ。
確かにいまさら感が拭えないけれど、民間頼りではなく、政府がこれらを効率よく生産確保するための采配を振るわなくて、どうして国民の生命の安全を守れようか。
日本の国民性は、他国の国民性よりはるかに御しやすく、忍耐強く従順だ。
安全が守られ、そこそこ美味しい物にありつけているならば、暴動を起こしたりしないのは実証済み。
そろそろグローバル化とは対極の鎖国状態になってきた。
はてさて、この状態が1年以上、いや半年以上長期化したときに、この日本はどうなっているのだろう。
不安を煽っているのではない。
どう善処していくかが大切で、目先の儲けではなく、そもそもの存続をかけた大鉈を振るわなくてはならない、政治家も企業も。
もし、自分だけが生き残ればいいなどと考えていては、基も子も失うということを忘れてはならない。
そして、遍く国民は、この今をしっかりと目に焼き付け、自らの在り方を問い、これからの生き方を考える機転にたたされているのだ。
いくつかの犠牲を払いながら乗り越えた先に、この地球でよりよく生きていける未来が開けることを願っている。

こう書きながら、一刻も早く予防のため、せめて消毒溶液とマスクが多くの人にいき渡ることを望む。

雪と桜

2020-03-29 23:18:24 | 日記
満開の桜と雪の、あまりない景色に目を楽しませた一日だった。
それだけでない、水仙、菜の花、桃の花、レンギョウ、シデコブシなど、百花繚乱雪景色といったものでもあった。
残念なことに、写真に収めるチャンスがなかったけれど、この目にしっかりと焼き付けようと、心行くまで眺めてきた。
青空に薄ピンクの桜の花も映えるけれど、鈍色の空に濡れて黒っぽくなった幹や枝の色が、薄ピンクの桜の花を狂おしいほど壮絶かつ妖艶に引き立たせる今日のような桜も、また捨てがたい。
きっと、この桜のほうが、命の持つダークな力をダイレクトに現してしまうのではないだろうか。
さて、来年の桜をどのような感じで愛でることができるのか、神のみぞ知るなのだな。

桜 満開 花散らしの雨

2020-03-28 23:40:08 | 日記






花は、ただあるだけでもう十分な存在だ。
存在とはなんだろう。
生きるとはどういうことだろう。
バランス、何かが破綻していて、それを修正しようとしているのか。

今、激しい雨が桜を打ちつけている。
明日は雪が降るかもしれない。
花びらが雨に流され、薄桃色の川をなしているのだろうか。


2020年3月20日 お彼岸中日 土埃

2020-03-20 22:49:10 | 日記


これ、いったいどうしたことだろう?
毎年、2月から4月にかけて、このような強風にあおられて吹きたつ土埃の様子で、特殊効果などではない。
世紀末的光景?
風の谷のナウシカ、マッドマックス、北斗の拳の世界が再現されているかのよう。
今日は春分、お彼岸の中日、お墓参りの人がこの土埃の中、花を供え手を合わせていた。
その誰もが、ご先祖様の加護を強く願ったのではないかと想像するが、当たらずとも遠からずといったところだろうか。

霙交じりの雨、餃子

2020-03-14 23:54:40 | 日記
昨日から急転直下、霙交じりの雨が降る、せっかく開花宣言となった桜も驚く凍える一日となった。
おやおや、これは元小さい人の滅多にない行動が引き起こしたものなのか?
激しい不器用さを自任し、またそれを盾ともしている元小さい人が、どうしたことか自ら餃子の包みを申し出た。
予想を裏切ることなく、はじめの3つくらいは、ひだの寄せ方が不恰好で、どうにか中身が飛び出さない程度の出来だった。
ところが、数をこなすうちに均等にひだを寄せ、餃子らしい形に仕上げてきた。
苦手なことを途中で投げ出さず向き合い、工夫して物事に当たれるまでに成長したのだと、些細な餃子包みからも感じることができ、うれしくなった。
珍しいことをすると、雪が降るなどの冗談はどうとして、人がよくなろうとする姿勢を感じられるのは、なんともいいものだ。
不完全な人だからこそ、その生がある限り、よくあろうとすることをやめてはならないのだと思う。
もちろん、それは他と比べてという低い次元ではないのは、いうまでもない。