きのうの投稿では、満開を迎えた染井吉野の画像を掲出した。
春爛漫の津幡町、他にも目を楽しませてくれる花は多い。
「白木蘭(ハクモクレン)」もその一つだ。
木蘭はかなり古い時代の姿を留めているという。
花言葉は「自然への愛」「崇高」「持続性」。
気候変動や環境の変化を生き抜いた大ぶりの美しい花に相応しい。
また、上に向って開く様子は「人の手」にも例えられる。
このスナップを撮影したのは、町営「鷹の松墓地公園」。
場所柄からか?
青空へ結ぶ「仏の手印」に見えない事もない。
花を見つめながら、連想の要因が「あの歌」にあると思い至る。
毎年、木蓮の花が咲くころ、亡くなった人の面影が浮かぶ。
また逢いたい。
逢えないと分かっているから哀しい。
90年代のヒットバラード「木蘭の涙」をご存知の方も少なくないだろう。
知らず知らずのうちに意識に染みているのは、歌の持つチカラである。
そんな諸々を思考した後、
墓地の木蘭の側を離れた僕は、ある光景にハッとした。
大袈裟に言うなら、軽い衝撃を覚えた。
無造作に打ち捨てられた仏花。
人が、人の都合で育て、
人の都合で切り取られ、
人の勝手でゴミにされる。
花は、本来、種子植物の生殖器官である。
花の立場にすれば、たまったものではないだろう。
哀しくて仕方がないだろう。
--- とまあ柄にもないことを考えてしまったのは、
やはり、切ないラブバラードの旋律と無縁ではないかもしれない。
人智が及ぼす益害は複雑です。
今日(こんにち)食卓に上る多くは
人が手を加えて生み出されたものばかり。
稲、麦、野菜、牛、豚、鶏などは、
人が効率よく食べるために
品種「改良」されたがものが殆ど。
花も自然から見れば過度に大きかったり、
発色が強かったりします。
つまりは、人が「消費」するのを前提に、
できた命です。
流石は万物の霊長といったところですが、
程々が肝要かと考えます。
自然と折り合いをつけるには、
「足るを知る」のが賢い選択ではないか。
そう思います。
長々と失礼しました。
また感想、お待ちしています。
では。
花は人が求めなければ、種子をまかれることなく、生を受けることもなかったかもしれません。ただ、りくすけさんのおっしゃられるように人の都合で、振り回される植物のことを考えると、人の存在自体が罪なのかもしれませんね。
では、また。
造花を献じる墓地。
お国柄ですね。
勉強になりました。
拙ブログで何かしら思考の機会があったなら、
幸いに思います。
こちらこそ「Reiko's Travel」には、
心動かされる機会は少なくありません。
今後ともどうぞよろしく。
では、また。
いつも考えさせてくれるブログ有り難うございます。
このコメントはあまりあなたのブログ内容とかけ離れているかもしれませんが、一言お話ししたかった。
オーストラリアの墓地では生花を飾ってはいけないのです。花を生けた水に蚊が繁殖するため、墓地周辺で売られているのは造花だけです。ショックでしたがなるほどと思いました。