先日のテレビで、「不安」を取り上げていた。
バンジージャンプをさせる時の不安の度合いを見せるところから始まっていた。
番組ディレクター氏と謎の男性の二人が挑戦者だ。ディレクター氏はそれこそ不安
に見舞われながら・・飛んだ。 もう一人の謎の男氏は、割と平然とした感じで飛んでいた。
その瞬間のディレクター氏、もしゴムが切れたら、身体を支えているひもが外れ
たら・・そんな不安にパニクッていたそうだ。 謎の男氏、川の流れる音を聞いて
いた、(もしゴムが切れたら・・なんて考えませんでしたか?の質問に)そんなこ
と考えてもしょうがないでしょう。 この、謎の男氏は実は禅僧でした。
番組は、脳の血流を調べたり、医学的な分析などをしながら進んでいた。
何気なく見ていたので、正しく記述はできませんが、禅僧が言うには、座禅の時
何を考えていますか? の質問に、「普通に答えるならば、何も考えていない・・」と
なるのでしょうが、実際は、「何かが頭に浮かんでも、そのことに関して考えるこ
とをせずにそのままやり過ごす。」 「また、何か浮かんで来たら、またやり過ごす。」
そんなことですね。
専門教授が、ゲストの皆さんに、この座禅に似たトレーニングを教えていた。
「小川が流れている。そこに木の葉を一枚浮かべる。」そんなことを想像して、
目を閉じて、「頭に浮かんだ事柄を、その木の葉に載せて流してしまう。」
「また浮かんで来たら、同じようにする。」そんなことをやっていました。
バンジージャンプの例を話しましたが、番組では、発作を恐れて外出ができない。
ブティックの売れ行きが悪くこのままどうなって行くのか?とても心配。 挙句、
お酒を飲む習慣となり、ますます不安が募ってきた。・・など深刻な不安・・を
どう克服するか、というものでありました。
ふっと、思い出したのが、だいぶ昔に読んだ、五木寛之の「不安の力」(2003、集英社)だ。
ちょっと抜き読みしてみますね。
「不安のない人生などというものはありません。人は一生、不安とともに生きていくのです。」
「不安を抱くことは、人間らしく生きていることだ。まず、そこから出発すること
を前提として、不安についていろいろ考えてみたいのです。」
「例えば頭痛は人間の肉体に対する警告なのだ。と僕は考えています。頭が痛いと
いう反応もないようだったら、人間、もうおしまいだろう。頭痛があることで、
人はどれだけそれより大きな深い悩みを早めに察知して、そこから救われているか
わからない。」
「不安ということもまた、そうなのです。不安は人間の優れた、大事な警報の働き
なのです。不安という警報機が鳴らないのは、泥棒が入っても警報機が作動しない
のと同じで、非常に困ったことだと思えばいい。要するに、不安というのは、人間
が本来持っている強い防衛本能なのではないでしょうか。」
「つまり、一日一日過ぎていくということは、一歩一歩死へ向かって歩いていくこ
とに他ならない。ですから、根本から発想を変えなければいけないと思うのです。
ガンが完全に治るなどという幻想を持ってはいけない。 ぼくらが生きているから
ガンがある、とこう考えたいものです。ぼくらが死んでしまえばガン細胞も死に
ます。生きている間、ガンと共に苦しむということは、その人が生きているという
証拠なのですから。」
これだけの字数でこの問題を説得したいなどとは、思っていませんが、それにし
てもなかなか言い表せない「不安」にさいなまれています。不安を力とすべき、
したいといっています。 テレビでは、不安をうまく癒す方法を述べていますし、
本の方は、不安を道連れにして、そのことがむしろ普通なのだ・・と飲み込んでし
まう、そんなことでしょうか?
下手な、記事にお付き合いくださいましてありがとうございました。