蓼科浪漫倶楽部

八ヶ岳の麓に広がる蓼科高原に、熱き思いあふれる浪漫知素人たちが集い、畑を耕し、自然と遊び、人生を謳歌する物語です。

若冲  (bon)

2016-11-13 | 日々雑感、散策、旅行

                  明日14日は、今年最大の満月が見られるのです。地球との距離が
           68年ぶりに大接近するというのです。14%ほど大きく、30%ほど
           明るいスーパームーン( お月様)ですが、お天気は大丈夫でしょうか? 

 

 今年、4~5月に東京都美術館で開催された「生誕300年記念 若冲展」は、“狂乱若冲展”
と異名を取るほどの盛り上がりで、会期中に、44万6千人もの来館者があったそうです。
東京都美術館だけでなく、京都、箱根、滋賀、東京など各地で若冲展が開催されました。
また、今年は、俳人・文人画家として活躍した与謝蕪村も同じ生誕300年を迎え、若冲、
蕪村両者の展覧会や、種々の企画がありました。

  釈迦三尊像(一部)(相国寺HPより) 群鶏図(ウイキペディアより)
              


 そんな中、今頃なぜ・・若冲なのか、ということもありますが、このほど届きました
会報に、「伊藤若冲の魅力」(小林忠、学習院大学名誉教授・岡田美術館館長)の記事が
ありましたので、取り上げてみました。 5月の「若冲展」を観そびれた(機を失した)身
として何をかいわんや、ではありますが、これまでいくつかの機会で触れた片鱗を総動員
して、この記事から、抜き読みして、若冲の際立った特徴を中心に記してみました。

 伊藤若冲(1716~1800)は、京都の町中の青物問屋の長男として、生まれますが、23才
の時に父親がなくなり、家督、家業をつぐことになりました。しかし、趣味として絵画に
興味を持つ彼は、家業は殆ど番頭などに任せて切り抜けていたようで、40歳で隠居(弟に
家業を譲る)するや、たちどころに、「月梅図」などの力作を発表しているのです。 
さらに、有名な「釈迦三尊像」三幅や「動植彩絵」三十幅を完成させているのです。

            若冲居士相国寺蔵
             (ウイキペディアより)
 

 これらの作品を、あげて臨済宗相国寺(京都市)に寄進しましたが、後に、寺が困窮し
た折(1889年)に、「動植彩絵」三幅を皇室に献納し、ご下賜金(1万円)により保全した
とあり、長く宮中奥深く秘匿される状況となっていたのです。 それが、今回一般公開の
許可が下り、釈迦三尊像と共に一堂に会することが出来たのでした。 東京都美術館の後、
12月4日まで、この両作品が共々、相国寺承天閣美術館「若冲展」で開催されていますので
是非観に行きたいと思っています。

 若冲の作風は、その精緻な描写と裏彩色にあると言われています。すなわち、直接物に
接した写生の重要性を重んじ、先ずは、自宅に鶏を飼って、観察しその形状を写し極め、
「鶏の画家」などと親しまれとか。鶏に限らず、鶴、孔雀や雀、目白などの小鳥なども
ペン画のような丹念で正確な描写が特徴です。さらに、絵絹の裏からも絵具を付ける
「裏彩色」の手法を施しているのです。これによって、形の深みや立体感を与えて、空間
の奥行きをより確かなものに演出しているのです。

 このほか、さらに多彩な絵画技法を創り上げています。中でも、“拓版画”と呼ばれる
独創的な技法を開拓しています。これは、白い線や白い画によって形を表す、陰画のよう
な表現効果をもたらすものです。それらは、淀川両岸図絵「乗興舟」や花鳥草虫画「玄圃
瑤華」、「素絢帖」などにみられるという。また、多色刷りの版画も試みていて、友禅染
の染色や蒔絵などの工芸的なデザインや色感の趣を発揮した作品も残されています。

 中年以降は水墨画作品が多くなったそうですが、「筋目描き」(小林氏命名)という
特殊な技法も編み出しています。これは、中国の画仙紙の性質を利用して、一筆ごとの
墨の画が乾くにつれて境界に白い筋目を浮き出して、花の花弁や鳥の羽、魚の鱗などを
無線で表現するというのです。 また、屏風画面の全面に約1㎝四方の升目を引き、その
内側に最低2個の色面を埋め込むという、手間暇をかけた手法で、モザイク絵に似た、現代
のデジタル画法にも通じた手法を考案しているのです。アメリカにある「鳥獣花木図屏風」
などは、若者にも人気があるそうです。陸上と海中の巨大動物を左右に配した「像と鯨図
屏風」など、人の意表をつく主題を発想するなどの面もあるなど観る人を喜ばせているの
ですね。
写実と想像を巧みに融合させた「奇想の画家」とも称される所以ですね。

 会報記事の、小林氏の結びに、「そうした社寺への無償の喜捨行為や、晩年を過ごした
石峰寺への石仏や天井画の制作など、生涯を通して行えたのも、実家が豊かであったこと
と、自身が名利を求めなかったからだろう。 今もなお、若冲画に心癒され、楽しめるの
は、飾ることの無い素朴な心根から発せられているからではないだろうか。」「・・常々
私は、『画遊人』の称号を与えたいと思っている。」と締めくくられています。

 あぁ、何としても京都行くか・・。

            (相国寺承天閣美術館)

 

 

 

 

 

 

 

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